コラートのクメール遺跡(5)
■ピマーイの朝
ピマーイホテルのVIPルームに宿泊したが朝食は付いていない。まあ一泊500B(約1300円)だから仕方がない。
ホテルで朝食が取れないときは外食ということになるが、自分はタイ旅行の朝食を「お粥」と決めている。街に出れば、お粥屋さんは必ず見つかる。1日3食とも外食というタイ人は珍しくないから、朝食専門のお粥屋があるのだ。これまでお粥で外れだったという経験はない。
ホテルを出てすぐのバス停わきにお粥屋さん発見。トリガラダシのお粥に半熟卵とパクチーのみじん切りを入れてもらう。街を行きかうソンテウや人々を見ながら、スプーンを口に運ぶ。なんとなく、タイになじんでいるなあ、と思う瞬間だ。
朝食を終えて散歩、月曜であるから小学校に続々と子供がやってくる。校門の近くには朝から串焼やクレープなどを売る露店が立ち並び、登校前の子供たちでにぎわっている。チェンライに比べ、色黒の子供が多い。チェンライは中国系、ピマーイを含むイサーン(タイ東北部)はクメール系の人が多いからだろう。
■仏塔跡で考える
小高い丘の上にある仏塔跡を見に行った。丘の高さは20mくらいか。ラテライトのレンガが積み重なっている。クメール王国は15世紀にタイの新興国アユタヤに攻められて滅亡した。クメール王国第2の都市、ピマーイもその時に攻め落とされた。その時にこの寺院も灰燼に帰したのだろうか。クメール王国が滅びてから数百年、20世紀初頭に西欧人に再発見されるまでピマーイはジャングルの中にひっそりと埋もれていたという。
タイ、ビルマ、カンボジア、ラオスの人々は敬虔な仏教徒であり、心やさしく、穏やかな人が多いと思われがちだ。しかしクメール、スコタイ、アユタヤ等の王朝興亡史を見れば決してそのようなことはない。焼き尽くし、殺し尽くす。攻略された街は何百年にもわたって無人の廃墟と化した、という記述があちこちに出てくる。
アユタヤやスコタイの古い仏像の頭部は戦乱のさ中に失われている。「こんな罰あたりのことして」などと自分は思ってしまう。
ピマーイもそうだがチェンセーンやチェンライなどタイの古い街は城壁で囲まれている。戦いの時は近隣住民と共に籠城し、城壁が破られれば皆殺しにあったのだろう。
丘の仏塔跡はウズベク、キジルクム砂漠に点在していた都市遺跡(カラ)を思いださせた。その昔、アレキサンダー大王の、アラブの、そしてチンギス汗の軍団に対して絶望的な籠城作戦を行い、そして皆殺しにあった遺跡だ。
遺跡に立つ時、海に囲まれ、外敵によるジェノサイドと縁のなかった平和な日本の歴史を有難く思う。
■先史時代の墳墓遺跡
朝の散歩から帰って9時。ガイドブックによるとピマーイ郊外の村、バーン・プラサートに先史時代の墳墓遺跡があるという。紀元前1500年にさかのぼるらしい。ここで発掘された壺がピマーイ博物館にも展示されていた。
バスで2号線を20キロほどコラート方面へ戻る。運賃は18B 、降りた場所は両側が田んぼの何もないところ。何もないと思ったら向い側に「考古学的遺跡バーン・プラサート」と書いたゲートがあり、その傍らのあずまやにおじいさんが一人寝ていた。村はここから2キロある。バイクで案内してやるから80B出せ、という。バイタクのようだ。選択の余地はない。
老人のバイクで、村の遺跡発掘現場に行った。深さ5mほど掘られたピットの底に骸骨が並んでいる。貝殻の首飾りや金属の腕輪をしていたから金持だったのだろうか。それよりもどうやって5m掘れば骸骨が出てくると分かったのだろう。現場の濡れ縁にケースに入った人骨が無造作に置かれていた。第一ピットの横には小さな博物館があったが、月曜休館で扉は閉っていた。中をのぞくとケース入り人骨が何体もあり、ピマーイ博物館にあった土器が多数展示されていた。
案内されたピットは全部で3つ、それぞれ穴の底に骸骨がならんでいる。第3ピットには15体の骸骨が全員東向きに並んでいた。だがそのうち5体には頭部がない。なぜか。人骨は見たところ180センチはあり、今の小柄なタイ人とは人種が違うように思われる。
見れば見るほど謎が深まる。博物館の開館日にまた来たいと思った。村にはホテルはないが、数軒の家がホームステイを受け入れていて、泊まると墳墓の詳しい説明をしてくれるらしい。
バイクで国道まで送ってもらった。老人はリビアで働いていたという。そのあとイタリアで3年過ごした。どうしてって?、そりゃ金のためさ。ピマーイに戻るバスを待つ間、老人にイタリア語の教授を受けた。タイ語でイタリア語を習うというのも旅の面白さと言えるだろうか。
写真上から「登校中の子供達」「穴底の骸骨」二枚、「ケースに収められた骸骨」、以下2枚「仏塔跡」