任国内旅行(ブハラ、ヒバ)その5
ヒバ旧市街、イチャン・カラ訪問
ウルゲンチからヒバまで乗り合いタクシー(一人400スム)で20分くらいの距離だ。土曜だったのでホレズム州立がんセンターに派遣されているF隊員が案内をかってくれた。
ヒバは6千年前から人が住んでいたというウズベキスタンでも有数の長い歴史を持つ都市である。一時モンゴル帝国によって破壊されるが、1592年、ホラズム王国の国王アラブ・ムハメット・ハーンがウルゲンチから遷都し、16世紀後半からはヒバ汗国の首都として栄えた。
ヒバは街そのものが博物館といわれる。これは誇張ではなく、伝統的なオアシスの景観が文字通りそっくり保存されている。西アジア、中央アジアで破壊されず、中世のオアシス都市の景観をそのままに残しているのはここだけだ。ヒバの中心、イチャン・カラ(旧市街)は周囲を高さ10m、幅8m、総延長2,250mの城壁に囲まれている。昔のヒバはこのカラ(砦を意味する)の内側におさまり、更に周りを濠に囲まれていたという。30mおきに見張り台が設置されている。この城壁の建造は紀元前5-4世紀に遡るらしい。ほぼ長方形のカラには東西南北に4つの門がある。荷物を積んだ駱駝が行きかったので門のアーチは高い。
1967年にイチャン・カラ全体が歴史博物館に指定、さらに1993年にユネスコ世界文化遺産に指定された。その一方で人々が生活する姿は自然で、まるでタイムスリップしたかのような古い街並みが広がる。
F隊員とヒバのタクシー降り場、アタ門(写真)に着いてみると、なにやらにぎやかだ。音楽に合わせて小学生が踊っている。ああ、近々、カリモフ大統領がヒバを訪問するので、その歓迎準備です、1月前に比べて大分踊りが上手になりました、とFさんが言う。大統領の訪問日はテロを防ぐため、一般には知らされていない。多分、11月の初めだろうとのことだ。
アタ門で街への入場料一人3500スムを支払う。主だったモスクやマドラサの拝観料込み、2日間有効の券を受け取る。長方形の街の短い辺は500m足らずであるから、ざっとみるだけであれば1時間もかからない。城内の狭い空間には壮麗なモスク、宮殿、マドラサが所狭しと並んでいる。
街全体が遺跡になっているが、一般の人の住居が在り、自動車も通る。子供が一杯いてコンニチハ、サヨナラと挨拶をしてくれる。観光センター派遣のS隊員がシーズンオフに日本語を教えているから、とのこと。S隊員の名前は「マサハル」というのだが、こちら風に「マンスール」と呼ばれている。狭い街だからマンスールを知らない人はいない。「マンスール・ヴィラン・タニシ(私はマサハルの知り合いです)」というと、まるで魔法の呪文のようにお土産品、ホテル代金、飲食代その他もろもろの値段があっという間に下がる。ヒバを訪れる人にはぜひ覚えて欲しいフレーズだ。
アタ門をくぐって左前方にムハマンド・ラヒーム・ハーンのマドラサがある。その広場では100人を越える女子学生が踊りの練習をしていた。大音量のスピーカから流れる音楽に合わせて、前方できれいな女子学生10名が、後方集団でそれなりの女子学生がくるくると民族舞踊を踊る。
この国では夏休みが3ヶ月あり、棉摘みに2ヶ月駆り出され、そしてラマダン期間の1月間はおなかが空いて勉強できない、更に地方の学生、生徒は春に棉の草抜き作業に行かされる。そして偉い人の視察があれば、このように1月も踊りの稽古だ。これでは一体いつ勉強するんだ、ということになる。バンク・カレッジだけではないと思うが、学校や先生の都合で休講となった場合、補講というシステムがない。勉学意欲以前に勉学時間が少なすぎる、というのがウ国の教育制度の問題点だと思う。
ラマダン明けの土曜日ということで結婚式を挙げたばかりの新婚さん、そしてその友人の集団が幾組も通る。モスクや宮殿をバックに記念写真を撮るためだ。着慣れない背広に緊張して、真っ白なウェディングドレスの花嫁の手を取るお婿さんは20代前半だろうか、田舎っぽいが初々しくて大変よろしい。
Fさんの案内で旧市街のメロスというゲストハウスに行き、荷物を置く。マンスール・ヴィラン・タニシの呪文で1泊朝食付きで10ドルでいいとのこと。温水シャワーつきのツインルーム、テラスから城壁、コフナ・アルクがのぞめる清潔で明るい部屋だ。
(続く)