任国内旅行(ブハラ、ヒバ)その4
「スィターライ・マーヒ・ハーサ」ブハラ市内から北へ5噌圓辰申蠅法屬月さまとお星さまの宮殿」という美しい名を持った夏の離宮がある。ロシアで教育を受けロシア文化に心酔したブハラの最後のハーン、アリム・ハーンの趣向により建物はブハラ、ロシアの折衷様式だ。ロシア人と地元の職人が建設に参加し、1911年に完成した。外観は西洋風、内装は主に東洋風と、東西の様式が混在した宮殿となっている。テラスのある中庭に面して建てられた白い建物がハーンの宮殿で、ここにある噴水のために中央アジア最初の発電機が備え付けられた。宮殿内の応接間や謁見の間は当時最高の建築職人30人が趣向をこらして壁や天井を装飾し、とても美しい。内部にはハーンが使用した西洋の調度品や、中国、日本の陶器などが飾られている。
深田久弥氏の著『中央アジア探検史、シルクロード』のなかにこのスィターライ・マーヒ・ハーサが出てくる。彼は1966年にシルクロード踏査隊長として4ヶ月旅をしているがその時、ブハラも「探検」したようだ。
「プハラの郊外にマハサと呼ばれる前世紀の王の夏の離宮がある。そこへ行くと、離宮というが、案外質素な構えであった。これを作った王は、ハイカラだったとみえて、洋風の庭園の中の洋風の建物で、ガラスの壁などしつらえてあった。今は博物館になっている。諸外国からの贈呈品が多く、その中に明らかに日本製とわかる大きな花瓶も飾ってあった。……」
確かに清朝、乾隆帝時代の壺に混じって日本の有田焼と思われる1.8メートルほどの花瓶があった。これはブハラの富豪が、1910年に日本に赴き、買い求めて離宮の完成を祝ってハーンに献上したものという。どうやって日本からブハラまで運ばれたのだろう。鉄道のない時代、駱駝の背に乗せられてきたことは間違いない。
広い敷地内には、若い女性たちを泳がせたプール、300人の女性を住まわせたハーレムなどもある。ハーンは水浴びをする女性たちを近くのアイワンというテラスから眺め、気に入った女性にリンゴを投げてその日の相手を決めたという。このテラスに立ってみたが相当の高さがある。ハーンはイチロー並の遠投力が必要であったろうし、リンゴが頭に当たった女性は脳震盪を起こしたと思われる。プールには今は魚が泳いでいる。
ハーレムの建物は、スザニの刺繍の博物館になっている。案内してくれたブハラ救急医療センターのS隊員はここでも「エリコ、エリコ」とすごい人気だ。いつも来ていますからね、というがブハラでたった一人の青年協力隊員で、ウズベク語が堪能、行く先々で「エリコ」の声がかかる。モスクや宮殿の入場料は彼女と一緒に行くと、ウズベク人価格から更に安いウズベク学生価格にしてもらえる。うれしい。
忙しいところあちこち案内してもらった御礼に、ガイドブックではぼられることもあると書かれているラビ・ハウズ沿いのレストランでウズベク料理をご馳走した。勘定書きは4万7千スムだったが、彼女の交渉であっさり2万1千スム安くなった。ウズベク語で交渉している彼女は頼もしく、まさに後光がさしているように感じたものだ。
次の朝9時に乗り合いタクシーでウルゲンチまで行くことにする。ブハラーウルゲンチは500キロ、運賃は一人20ドルだ。ただし、客が4人揃わないと出発しない。この日は客が揃ったのが12時、3時間もタクシー乗り場で待ったわけだが、近くに衣料品専門のバザールがあり、アストラカンの防寒帽や皮のジャンパーなどを試着して回り、これも旅の一興。またこのバザールの一角で散髪をした。水道設備がなく、汲み置きのバケツの水と電気ポットのお湯を混ぜて頭を洗ってもらった。値段は2000スム。
タクシーはネクシアという韓国車。120キロくらいのスピードで砂漠の中の一本道を飛ばす。まったくの直線道路、地平線まで道が延びている。単調で普通の運転手なら眠気を催すと思うが、この運転手はひっきりなしにひまわりの種を食べ続けている。居眠り運転をされるよりましである。時折、県境で警察の臨検がある。そのたびに運転手が「ジャパン、アレスト(日本人は逮捕されるぞ)」とつまらぬギャグを飛ばす。始めは手錠をかけられた真似をして運転手と残り3人の乗客を笑わせていたが、3回も同じことを繰り返すとばかばかしくなった。
5時間半のドライブでウルゲンチへ、ぐったり疲れたので少し奮発して市の中央、1泊25ドルのウルゲンチホテルへ投宿。暗くて閉館しているのではないかと思うくらいの陰気なホテルだ。バスがあったので風呂に入ろうと蛇口をひねったら、エクソシストのホラー映画のように真っ赤な水がほとばしり出た。ここ1月くらい宿泊客がいなかったのだろう。それでも疲れていたのでうなされることもなく、ゆっくり休めた。