チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

ポイペトからシェムリアップへ

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ポイペトからシェムリアップ

■索漠としたバスターミナル
2009年に完成したというポイペトバスターミナル(画像上)は代々木体育館ほどの大きさがある。天井が高く、広いのだが客が少ないため閑散としていた。中央に食堂街があり、右壁際にはチケット売り場や銀行が並んでいる。空港待合室と同じような椅子が300席ほどある。そこにお客が30人ほどしかいないのだから寂しい。タイへの観光客が激減しているのだから仕方がない。新築の建物だが、故障して使えないトイレがいくつかあった。メンテナンスまで手が回らないのだろうか。
12時過ぎにターミナルに着いたのだが、バスの出発時間は14時だという。切符はビザ代行を頼んだ旅行代理店で購入済みだ。代金は400バーツ、乗り合いタクシーだと1人500バーツ。タクシーは人数が4人そろい次第、すぐ出発する。チケットを購入する際、タクシーを勧められたのだが、100バーツも違う、とバスにした。わずかな金をケチったため、バスターミナルで2時間も無為の時間を過ごすことになってしまった。タイそばの食事をとったが、チェンライの倍の値段だった。

■改善された道路事情
ネットで先人の旅行記を読むと、ポイペト-シェムリアップの道路は「ダンシングロード」と呼ばれる悪路、ピックアップの荷台で飛んだりはねたりしながら5時間の難行苦行、到着したときは骨盤がバラバラになっている、土ぼこりで顔が真っ白になる、目薬、マスクは欠かせない、道路わきには「地雷に注意」の看板ばかりで立小便は出来ない、あるいはタクシーがあるが、女性客だと途中で乱暴され、パスポート、有り金を奪われたあと、裸で放り出される、などと恐ろしいことが書いてある。世界3大悪路のひとつ、などと書いてあったがあとの2つは何処だろう。
たしかに数年前まではでこぼこの未舗装道路だったらしい。しかし現在は完全舗装道路となっている。距離にして150キロくらいだから、休憩を入れても3時間で着く。バスはファラン約20名、日本人1名の客を乗せて東へと向かう。道路の両側は田んぼが広がっており、遠く地平線にチョコチョコと林が見える。アジアの平野らしいのどかな農村風景だ。道路わきの農家はタイと同じく高床式が多い。頑丈な金属製格子が窓にはまっているのは治安状態がまだよくないのだろう。物干しにぶら下がっている洗濯物からみると明らかにタイより貧しい。田んぼの水牛もタイの水牛より痩せているように見える。子供や大人でも上半身裸の人が多い(画像)。幹線は舗装されているが側道や家屋までの引き込み道路は未舗装である。

■観光で成り立つ街
シェムリアップ市内に入るとホテルばかりが目に付く。中国人街といっていいほど大飯店、旅社の漢字看板の連なる一角もある。バスは狭い広場に着いた、運転手の説明によるとバスの回りに集まったトゥクトゥクの料金も含まれていて、希望のホテルまで連れて行ってもらえるらしい。予約はしていなかったが、国境通過で世話になったお兄ちゃんから聞いたゲストハウス(GH、温水シャワー、冷房つき450バーツ)に連れて行ってもらった。GHで自転車を借りて、早速マーケットへ繰り出す。さすが観光の街、ファランが沢山歩いている。看板もおおむね英語、店員も英語を話す。アンコールビールのナマをジョッキで2杯、2ドルほどだ(画像下・背景はシェムリアップの町並)。カンボジアの通貨はリエルだが、GHもレストランもマッサージもネットカフェもすべてドル表示のドル払い。この国はドルがごく普通に流通しており、小額のドル紙幣を持ち歩かないとかなり不便である。

シェムリアップで感じる疲労
前夜、チェンライからバンコクまで10時間半、本日バンコクからアランヤプラテートまで4時間半、ポイペトからシェムリアップまで3時間、この24時間で18時間バスに乗ったことになる。しかしシェムリアップで感じるこの疲労感はどうしてだろう。バスの長旅のせいか。それだけではない。付きまとう物乞いや物売り、トゥクトゥクのせいか、道路を逆走してくる夥しい自転車やバイクのせいか(カンボジアは日本、タイと違って車は右側通行)、雨季特有の熱気と街の臭いのせいか、皆違う。自分でもその理由はわかっている。カンボジアに入ってからずっとポルポト時代のことを考えていたからだ。1975年にこの国を支配したポルポトはわずか数年の間に170万人、資料によっては300万人もの国民を殺した。当時の人口800万人の3分の1が「反革命」の名のもとに虐殺された。
あの運転手はクメールルージュの少年兵ではなかったか、あの食堂のおばさんの一家も犠牲になったのではないか。普通に暮らしている穏やかな人々の狂気とは何だろう、食後、夜の街に繰り出す元気もおきず、GHのベッドに倒れこむように寝入ってしまった。