チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

ポルポトの虐殺政治

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ポルポトの虐殺政治

■悪夢の始まり
1975年4月17日、南ベトナムサイゴン陥落の13日前、プノンペンは中国に支援されたクメール・ルージュ(ポルポト派)に「解放」された。数年にわたる内戦によって、首都プノンペンは、深刻な物資、食料不足に陥り、ロンノル政権に対する民衆の不満はその頂点に達していた。ついに内戦が終わったと信じた民衆は、歓声を上げて彼らを迎えた。しかし、まもなく民衆も歓声どころではなくなった。全市民を都市から強制退去し農村に移住させるというのである。民衆は、着の身着のままで農村部に追い立てられることになった。これらは、実に迅速に実行されたので、ほとんどの人は国外に逃げることも出来なかった。プノンペンはゴーストタウンと化した。
少しでも逆らう者は殺された。病院に入院している患者でさえ、ただちに、出て行くように命令された。何千という病人が容赦なく追い出された。中には、瀕死の重病人もいたが、彼らは、輸血用の血液や点滴の袋をぶら下げながら運ばれていった。

■知識階級の徹底粛清
それと同時に クメール・ルージュがしたことは、新国家建設のための協力者を集めることだった。前体制下の将校、医師、教師、技術者、などは名乗り出るように命じられた。また、海外に留学している学生にも呼び掛けられたのである。カンボジアを理想の国家にするために、君たちの知識、技術力が必要だというスローガンが掲げられ、その言葉を信じ共感した人々が続々とポルポトの元に集って来た。これら集って来た人々は、国家建設のため働いてもらうと言われトラックに乗せられた。しかし、これはひどいペテンであった。彼らは、途中で、機関銃で蜂の巣にされる運命にあった。留学半ばにして、海外からわざわざ帰国した女子学生も殺された。彼らは、処刑されるために帰って来たようなものであった。
ロンノル政権時代の政府関係者、軍人は家族もろとも処刑された。貧農出身以外の国民はすべて「アメリカ帝国主義に毒された敵」であった。都市居住者、知識階級、教師、僧侶、技術を持つものは処刑された。眼鏡をかけているだけで知識階級とみなされ、殺された。クメール・ルージュの虐殺が海外にあまり知られなかったのは仏語であれ、英語であれ、外国語を少しでも喋る人は真っ先に殺されたからである。

ポルポトを全面支援した中国
処刑人は「純真」な少年兵であった。後ろ手に縛った市民を棍棒で殴り殺した。死体や急所が外れてまだ苦しんでいる人は長方形の墓穴に投げ込まれた。この定型の墓はカンボジア全土にあり、クメール・ルージュが計画的に処刑、粛清を行っていたことを示している。ある歌手は知っている歌を全部歌え、と強要され、歌う歌がなくなったときに殺された。まるでレコードのスイッチを切るように。首だけ出して穴に埋め、衰弱死した後に首を切り取ってそこに芋の苗を植えたという記述もある。
夥しい数の死刑囚の写真は成果として中国に送られた。中国のクメール・ルージュ支援はポルポト政権が1978年にベトナム軍に倒されたあとも1995年まで続いた。中国の支援なしに大虐殺は為し得なかった。また中国から供与された無数の地雷は未だにカンボジア庶民の足を吹き飛ばしている。中国の地雷はコストを抑えるため陶器製なので金属探知機にかからない。
なお、2000年に中国の国家主席として37年ぶりにカンボジアを訪問した江沢民国家主席は、記者団に中国はポルポトの虐殺政治に責任を感じないか、と問われ、「過去のことは忘れ、未来志向でいくべきである」と答えたという。

■誰にも潜む狂気
クメール人は穏やかで優しいはずだった。それなのにごく普通の人たちが虐殺に手を染めた、虐殺者の何人かは今、シェムリアップの街を歩いている、そう思うと夜の街を歩く気にはなれなかった。
タイ人も穏やかで優しい、と言われている。しかし、いつそれが凶暴な殺人者集団と化すかわからない。タイの歴史はミャンマーやクメールなど隣国との戦争と大量殺戮の歴史である。「住民が全員殺されたため、長らく廃墟となっていた」という都市がいくつもある。
この国(タイ)で何かあった場合、日本政府は助けてくれないだろうからカミサンの実家にでも逃げ込むかなー、という友人がいたがそれは甘い。このような混乱時には外国人はかなりの確率で殺される。誰でもポルポト派の残忍さを持っている。クメール人にもタイ人にもインドネシア人にも、もちろん日本人にも、そして自分にもそういった狂気は潜んでいる。「私に限ってそんなことはありません」と言う人を自分は信用しない。


画像はキリング・フィールド(The Killing Fields)、ポル・ポト支配下カンボジアでの大量虐殺の慰霊の展示品。