チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

Evacuation Flightの思い出 2

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Evacuation Flightの思い出(その2)

救援機でテヘランから脱出した思い出を前号で書いた。1985年にやはり日本人がテヘランから救援機で国外へ脱出した。しかしこのときは日航機ではなく、トルコ航空機であった。なぜトルコ機だったのか。これには120年前に紀伊半島沖で起こったエルトゥールル号遭難事件が深く関っている。以下はブログ「国際派日本人養成講座」からの引用である。

エルトゥールル号事件のこと(国民同胞平成10年3月号より転載)
占部賢志(福岡県、高校教諭)

■1.テへランに孤立した邦人■
昭和60(1985)年3月18日の朝日新聞朝刊に「イラン上空 飛行すれば攻撃/イラクが民間機に警告」という見出しが躍った。当時はイラン・イラク戦争(1980-1988)の真っ只中であり、長びく戦闘にしびれを切らしたイラクサダム・フセインは、つい に総攻撃体制に入ったのである。
 その一環として、あろうことか、テへラン上空を航行する航空 機はいづれの国のものであろうと撃墜するという方針に出たのである。期限は日本時間の3月20日午後2時。
明けて19日の朝刊トップは「邦人に動揺広がる/脱出路探し に必死」と大書。外国航空の特別便が一部運航することにはなったものの、自国民優先のため日本人ははじき出されてしまい、邦人一行の不安におののくさまを伝えた。

外務省は救援機派遣を日本航空に依頼したが、「帰る際の安全が保障されない」として日本航空側はイラン乗り入れを断念したという。事態はますます深刻度を増した。同日タ刊には「テへラン 邦人300人以上待機」という見出しを掲げ、現地に釘付けとなった邦人の孤立状況が続報された。

■2.日本・トルコ関係史に無知な朝日■
こうして、もはや万事休すと思われた土壇場、翌20日の朝刊に「テへラン在留邦人希望者ほぼ全員出国/トルコ航空で215人」という朗報が載った。何とトルコ航空機がテへランに乗り入れ、邦人215人を救出してくれたのである。
まさに間一髪であった。掲載された写真には無事脱出できた子 供たちを含む邦人家族の喜びの顔が写っている。

 さて、ここで考えなければならないのは、なぜトルコが危険を冒してまで邦人を助けたのかということであるが、この疑問に対して朝日新聞の記事はこうである。すなはち「日本がこのところ対トルコ経済援助を強化していること」などが影響しているのではないかと、当て推量を書いておしまいなのである。

自国の歴史に無知とはこういうことを言う。日本とトルコには歴史的に深いつながりがあるのだ。この記事を書いた記者が知らないだけである。無知だけならまだしも、金目当ての行為であったかのように書くとは冒涜もはなはだしい。トルコは長いあいだ日本に対する親愛の情を育ててきた国である。

■3.駐日トルコ大使のコラム■
その証左として、昨(平成9)年一月の産経新聞に載った駐日トルコ大使ネジャッティ・ウトカン氏のコラムを紹介する。これを読むだけでも、トルコが何故日本に親愛の情を寄せるに至ったかの消息が明らかになろう。それは日露戦争をさらに遡る明治二十三年の出来事に端を発している。

勤勉な国民、原爆被爆国。若いころ、私はこんなイメージを日本に対して持っていた。中でも一番先に思い浮かべるのは軍艦エルトゥルル号だ。1887年に皇族がオスマン帝国(現トルコ)を訪問したのを受け1890年6月、エルトゥルル号は初のトルコ使節団を乗せ、横浜港に入港した。三ヵ月後、両国の友好を深めたあと、エルトゥルル号は日本を離れたが、台風に遭い和歌山県の串本沖で沈没してしまった。

悲劇ではあったが、この事故は日本との民間レべルの友好関係の始まりでもあった。この時、乗組員中600人近くが死亡した。しかし、約70人は地元民に救助された。手厚い看護を受け、その後、日本の船で無事トルコに帰国している。当時日本国内では犠牲者と遺族への義援金も集められ、遭難現場付近の岬と地中海に面するトルコ南岸の双方に慰霊碑が建てられた。
エルトゥルル号遭難はトルコの歴史教科書にも掲載され、私も幼いころに学校で学んだ。子供でさえ知らない者はいないほど歴史上重要な出来事だ。

ここに挙げられたエルトゥールル号遭難に際して、台風直撃を受けながらも約70人のトルコ人を救助した地元民とは、和歌山県沖に浮かぶ大島の村民である。(続く)

画像はアカ村の朝市