チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

Evacuation Flightの思い出

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Evacuation Flightの思い出

前号でモロー総領事のフォーラム出席の話を書いた。そこで米国はいざというときは自国民を救出するという強い意思を持ち、そのための手段を講じていることを知った。最悪の事態が起こったときは米軍の救援機が飛んでくる。救援機を英語でエバキュエイション・フライトという。

1979年、イランでイスラム革命が勃発し、国王が国外に脱出するのを受けて、フランスから原理的宗教指導者ホメイニ師が凱旋帰国した。そのとき、イラン南部で日イ合弁の巨大石油化学コンビナートの建設が進められていた。この合弁会社、イラン石油化学(IJPC)の建設はすでに8割がた完了していたのであるが、革命に伴う現地労働者の断続的ストライキによりほぼ業務停止状態に陥っていた。建設現場のバンダルシャプール(現バンダルホメイニ)にはIJPC、建設業者など3千名を越す日本人が残されていた。テヘラン空港はとっくに管制機能を失っており、定期便は飛んでいない。

実は自分はこのとき、IJPCの一員としてバンダルシャプールにいた。もう30年以上前のことになる。毎日仕事どころではなく、BBCのラジオ放送で革命の行方がどうなるかと心配するばかり。革命とはこれまで威張っていた権力者や金持ちが虐げていた目下に殺されることだ、ということを実感した。日本人はイランで働き、高い給料をとっている、それはイランの富を盗んでいるのと同じだ、「ジャパニーズ・ゴー・ホーム」という言葉をイラン人から浴びせられた。
身の危険を感じるときもあり、完全外出禁止、不安の中で宿舎内に籠っていた。

こういった不穏な状況下で、ソビエトアエロフロート機を、韓国は大韓航空機をアバダン空港に着陸させて、自国民を次々に脱出させた。日本はどうか、アバダンに救援機が来てくれるわけがない。陸路パキスタン、クエートへと、少しずつ脱出していった。日本は救援機を飛ばしてくれないのか。いざとなったら、みなボートピープルとなってペルシャ湾に逃げ出そうか、などと真剣に議論したものだ。

事態が急激に悪化していく中、とにかくテヘランまで行けば救援機が来る、といわれ、アバダンから一昼夜、列車の3等席に座ってテヘランまで出た。日本航空がテへランからローマ、あるいはアテネまでピストン輸送でイラン国内に残された日本人を運んでくれるという。夜、テヘラン大学方面から乾いた銃声が断続的に聞こえてくる。ホテルのベッドで毛布を引き寄せ、あー、早く脱出できないかな、と思ったものだ。何日かホテルで待機していたが、深夜12時を過ぎて非常呼集が掛かった。午前4時に救援機がローマまで飛ぶ、出発準備をするように、携帯できるのは5キロ程度の手荷物一個のみ、後は捨てていくこと。着の身着のままで救援機に乗り込む。出国手続きをしたのかどうか覚えていない。小銃を構えた革命軍兵士が大したものは入っていないバッグをかき回していたことは覚えている。

真っ暗な滑走路を、次第にスピードを上げ上昇体制に入る。機がふわりとイランの土地を離れた瞬間、機内に大きな歓声と拍手が沸き起こった。「おー、もう絶対こねーぞ」などと叫ぶ人もいる。みんな笑顔でくしゃくしゃだ。水平飛行に移ったところで、日本茶のサービスがあった。配るのはおじさんばかりだ。この日航機はすべて管理職で運行されております、とのこと。組合との関係で若いスチュワーデスは1人もいない。乗客、乗員すべて男性。多少、ぎこちない様子でお茶を配り歩く日航職員の中でひときわ背が高く、袖の金モールの数が一番多い紳士がいた。品があり、まるでお殿様のようだ。彼の横に立つスチュワードが「皆様、これが私ども日本航空の取締役パーサー室長でございます」と紹介してくれた。

お殿様は手ずから、「ご苦労様でした」と言いながら自分にお茶の入った湯飲みを渡してくれた。こちらの風体は、というと建設現場で着る薄汚れた防寒着、真っ黒に日焼けした顔、それに蓄えるものがないからなど言って、数ヶ月掛かってやっと蓄えた髭、それも薄いものだからまことに貧相、まるで経済難民だ。思わず、茶碗をへへーっと押し頂いてしまった。

何の因果でこういうことになったのかわからないが、大学のときもっと勉強して、化学会社ではなく、日本航空に就職すればよかったなー、と考えていたことを思い出す。

それから幾星霜、縹渺たる彼方といった時間が流れ、日本航空は実質倒産し、自分の勤めていた化学会社は今だに健在である。

画像はアカ族の子供達