
■4.島民挙げての救援活動■
当時、通信機関も救助機関もない離島のこととて、救助は至難を極めたという。怒涛に揉まれ、岩礁にさいなまれ、瀕死のトルコ人達に対して、大島村民は村長沖周の指揮のもと、人肌で温め精魂の限りを尽くして救助に当たった。さらには非常事態に備えて貯えていた甘藷や鶏などの食糧の一切を提供して精をつけ、彼らの生命の回復に努めたのである。この事件の詳細な消息は、陣頭指揮をとった沖村長がみずからまとめた「土耳其軍艦アルトグラー號難事取扱二係ル日記」に克明に記されている。知る人も知ろうとする人も少ないだけである。
ちなみに、エルトゥールル号遭難4年前の明治19(1886)年には、同じく紀州沖でイギリス貨物船ノルマントン号事件が起こっている。こちらの方は現在も小中高の歴史教科書に掲載されていて、多くの子供たちも周知の史実である。難破して沈没する船を放置して船長のドレイク以下外国人船員は全員がボートで脱出、乗り合わせていた日本人乗客25名は見捨てられ、全員船中に取り残されて溺死するという無残な結末となった。
にもかかわらず、領事裁判権を持つイギリス領事は船長に無罪判決を下した。のち日本政府は船長を殺人罪で告訴したが、3ヵ月の禁固程度で賠償は一切却下。まさに不平等条約の非情さを天下に知らしめた事件である。 それからまもなくエルトゥールル号の遭難事件は起こった。大島の村民もノルマントン号事件に見られた残酷な仕打ちは知っていたであろう。それでも前述のように異国の人々の救助に献身したのである。
■5.明治日本人のオープンマインド■
いったいこの精神の高さはどこから来るのか。この点に関して、トルコ大使に就任した遠山敦子氏と東京大学教授の山内昌之氏は、こう述べている。 (中央公論社「世界の歴史」第二十巻月報)
山内: 明治時代の初等教育の普及率は大変な高さですね。小学校の就学率は、明治30年代で90パーセントを突破します。1891(明治24)年には非識字者は26.6パーセントでしたが、明治の最後の年になると字が読めない人の率は2.9パーセントに低下しています。 (中略)これが明治日本の成功の大きな理由だと思います。そして、そこにエルトゥールル号救助の際の献身的な行為が生み出されてくる。
遠山: そのとき、救助にあたった村民たちがエルトゥールル号の乗組員を人肌で温めて蘇生させたとか、村中の二ワトリをかき集めてご馳走したとか、エルトゥールル号事件には、私は大変感動しておりまして・・・。言葉は通じないけれど、1890年にすでに日本の国民は、地方でもオープンマインドをもっていて、いざというときには人類愛というか人間愛を発揮できたんですね。
山内: そこに困っている人たちがいる、遭難している人たちがいたら助ける、そこに理屈は何もない。この無償の行為に強く心がうたれますね。やはり初等教育の普及といったことが背景にあって、知らず知らずに人間愛が生まれてくる。これがやはり文明というものだと思います。
この対談で山内氏は初等教育の普及が育んだ人間愛について言及しているが、たしかに沖村長とともに救援活動に最も功労があったと言われる樫野区長の斉藤半右ヱ門は、当時樫野小学校創立期の学務委員として初等教育確立に尽カした人物である。救援活動の過労と心労のためか翌年死去したが、誠実な人であったという。
ただし、筆者は近代教育が与えた影響は否定しないが、むしろ 側隠の情は近代以前から地下水のごとく育まれていたと見るべきではないかと想像する。そうした精神的基盤があったればこそ、わが国の近代初等教育に生命が宿ったと見る者である。
■6.「当然のことをしたまでです」■
いずれにせよ、一世紀を経た昭和60年に身の危険をも顧みずトルコがテへランに孤立した日本人を救出したのは、エルトゥールル号事件に対する恩義を背景として培われた親日の行為だったと見てはじめて得心がゆく。
じつは、このエルトゥールル号事件のことを授業の教材にすべく、昨年七月にトルコ大使館から貴重な資料を送っていただいた。その際、邦人救出に対して感謝の旨を伝えると、大使は通訳を通じて「いやぁ大したことではありません。当然のことをしたまでですよ」とこともなげに謙遜されたが、忘れ難い言葉である。(引用終わり)
実はトルコ航空が日本のために撃墜の危険を顧みず救援機を飛ばしてくれたことがもう一度ある。
1990年、湾岸戦争直前、アメリカその他の多国籍軍にイラクを攻撃させないため、サダム・フセインに日本人や他の外国人が人質にとられるという事件があった。この際、どうにか助け出された日本人人質を国外に連れ出してくれたのも、トルコ航空だった。感謝と共に記憶しておきたい。
画像はアカ村の分教場