チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

雪をタイ語で 1

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雪をタイ語で・・・・(その1)

今年の冬は世界的に厳冬で、ワシントンでは2月10日、累積積雪量が139.4センチと史上最高を記録した。東京でも何度か降雪が見られた。ところで雪をタイ語で「ヒマ」というのだが、すぐ忘れてしまう。そのたびに辞書を引く。ヒマの下に「ヒマパーン」という単語があった。「仏教の本生経の第2巻」とある。おお、これはジャータカ物語、いわゆる本生譚に出てくる「雪山童子(せつせんどうじ)」の話ではないか。

昔、ヒマラヤにひとりの苦行外道がいた。彼は雪山童子と呼ばれた求道者で、衆生利益
のために、自分を犠牲にして顧みず、種々の苦行を修めていた。 しかし、帝釈天(たいしゃくてん)は、そんな雪山童子の法を求める態度に疑いを持っていた。悟りを開こうとする者は多いが、ほとんどの求道者は、わずかな困難に出会うと、たちどころに退転してしまう。それは、ちょうど、水に映った月が、水の動くままに揺らぐようである。多くの者は、鎧や杖で身を固め、物々しいいでたちで、賊の討伐に向かうけれど、いよいよ敵陣に臨むと、恐怖に駆られて退却する。同様に、悟りを開こうと固い決意をした人も、生死の魔軍に出会えば、求道の心を失う。雪山童子の苦行は本物なのだろうか。

車に車輪がふたつあれば、運搬の用に立つ。鳥に双翼があれば、空を飛べる。同様に、修行者も、戒を保つだけでなく、正真の智慧がなければ、悟りに到ることはない。はたして、雪山童子が、修行を完成できるだけの人物であるかどうか、試してみよう。
そう思った帝釈天は、見るも恐ろしい羅刹(らせつ=鬼)に姿を変えると、天上から雪山へ下ってきた。そして、雪山童子の間近までやって来て、立ち止まると、過去世の仏が説いた偈文(げもん=詩句)の半分を、声高らかに唱えた。
諸行無常 (しょぎょうはむじょうなり)
是生滅法 (これしょうめつのほうなり)
 羅刹は、偈文の半分を唱え終わると、四方を見回した。これを聞いた雪山童子は、大いに喜んだ。それは、まるで、深山で友とはぐれた旅人が、恐怖とともに闇夜を彷徨ったあげくに、再び友と出会ったような思いだった。喉の渇いた人が、冷水に出会ったようでもあり、長く病床にある人が、名医に逢ったようでもあり、海に溺れた人が、船に出会ったようでもあった。雪山童子は、辺りを見渡したが、恐ろしい羅刹以外は、誰もいなかった。
 よもやとは思ったが、童子は、羅刹に訊ねた。
「大士よ、あなたはどこで、過去の仏の説いた偈文を聞いたのでしょう。その偈文は、過去現在未来の三世に渡る仏の教え、真実の道です。世間の人間でさえ、ほとんど、知ることのない教えです。本当に、どこで、その偈文を聞いたのですか。」
「出家者よ、そんなことを聞いても無駄だ。私は、もう、幾日も食べ物が手に入らないので、飢えと乾きで心が乱れて、でたらめを言ったのだ。」
「大士よ、もし、残りの偈文を説いてくれるならば、私は、終生、あなたの弟子になります。先ほどの偈文だけでは、字句も不完全だし、義も尽きてはいません。どうか、残りの偈文を教えてください。」
「出家者よ、私は、飢え、疲れているから、説くことができないのだ。」
「大士よ、あなたは何を食べるのですか。」
「私の食べ物は、人肉だ。飲み物は、人の生き血だ。」
「大士よ、話は分かりました。残りの偈文を聞くことができたら、私は、この肉体をあなたに差し上げましょう。たとえ天寿を全うしても、どうせ、私の死体は、獣か鳥に食われるだけです。しかも、食われたからといって、何の報いがあるわけでもありません。それならば、悟りの道を求めるために、この身を捨てる方が良いでしょう。」
「では何か。わずかな偈文のために、肉体を捨てようと言うのか。しかし、そうは言っても、誰も信じないだろう。」
「あなたは無智ですね。瓦の器を捨てて、七宝を得ることができるなら、誰でも喜んで瓦を捨てるでしょう。」
「お前が本当にその身を捨てるというなら、残りの偈文を説いてやろう」。
 雪山童子は、羅刹の言葉を聞いて、身につけていた鹿皮を脱いで、羅刹のために法座を設け、
「大士よ、どうかここにお座り下さい。」
と言うと、合掌してひざまづいて、一心に残りの偈文を求めた。
羅刹は、厳かに残りの偈を説いた。
 生滅滅已 (しょうめつめっしおわりて)
 寂滅為楽 (じゃくめつをらくとなす)
 
(以下次号)