チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

クラーク先生

バンク・カレッジのクラーク先生

日本滞在中、いろいろな方から物心両面で温かい励ましとご支援を受けたことは再々書いている通りである。

自分がそれほど長くカレッジで教えていないにも拘らず、生徒が可愛くて仕方ないと言ったところ、「それでは、中西さんはクラーク先生になれますね」とお世辞を言って下さる人が何人かいた。友人とはありがたいものである。そういわれてみるとクラーク先生のことが気になってその事跡をちょっと調べてみた。クラーク博士は、札幌農学校で教鞭をとり、別離にあたって「少年よ、大志を抱け」の名文句を残した人として知られている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
ウィリアム・スミス・クラーク(William Smith Clark、クラーク博士、1826年7月31日 - 1886年3月9日)は札幌農学校(現北海道大学)初代教頭。いわゆるお雇い外国人のひとりである。専門の植物学だけでなく自然科学一般を英語で教えた。このほか、学生たちに聖書を配り、キリスト教についても講じた。のちに学生たちは「イエスを信じる者の誓約」に則り次々と洗礼を受けた。

彼の言葉、‘Boys Be Ambitious’(青年よ、大志をいだけ)は、よく知られている。これは、札幌農学校1期生との別れの際に、北海道札幌郡月寒村島松(現在の北広島市島松)でクラークが発したものとされている。しかし、この文言は、クラークの離日後しばらくは記録したものがなく、後世の創作によるものだと考えられた時代があった。1期生の大島正健(後の甲府中学校(現・甲府第一高等学校)の学校長)による離別を描いた漢詩に、「青年奮起立功名」とあることから、これを逆翻訳したものとも言われた。

しかし、大島が札幌農学校創立15周年記念式典で行った講演内容を、安東幾三郎が記録。安東が当時札幌にいた他の1期生に確認の上、この英文をクラークの言葉として、1894年ごろに同窓会誌『恵林』13号に発表していたことが判明した。安東によれば、全文は'Boys, be ambitious like this old man'である。このまま訳すと、「この老人のように、あなたたち若い人も希望を持ちなさい」というような意味になる。安東の発表の後、大島自身が内村鑑三編集の雑誌Japan Christian Intelligencer, Vol.1,No.2でのクラークについての記述で、全く同じ文章を使ったことも判明した。

ただし、前段の'Boys be ambitious'は、クラークの創作ではなく、当時、出身地のニューイングランド地方でよく使われた言い回しだったという説もある。

略歴
マサチューセッツ州アッシュフィールド生まれ。アマースト大学卒業。ドイツのゲッティンゲン大学留学後、アマースト大学教授。南北戦争には北軍少佐として従軍。米マサチューセッツ農科大学第3代学長に就任。(初代、第2代学長は開学前に辞任しているため、クラークが実質的な初代学長である)

専攻は園芸学、植物学、鉱物学。任期中に日本政府の熱烈な要請を受けて、1876年(明治9年)7月に札幌農学校教頭に赴任する。マサチューセッツ農科大学の休暇を利用して訪日という形をとった。クラークの立場は教頭で、名目上は別に校長がいたが、クラークの職名は英語ではPresidentと表記することが開拓使によって許可され、ほとんど実質的にはクラークが校内のすべてをとりしきっていた。

8ヶ月の札幌滞在の後、翌年の1877年5月に離日した。帰国後は学長をやめ、新規大学の開学を企画するが失敗。その後、知人とともに鉱山会社を設立するが、会社は破産。出資者から詐欺罪で告訴され、すべての判決が出そろう前に心臓病でこの世を去った。

(引用終わり)

札幌羊が丘展望台にはフロックコートを風になびかせ、右手を水平に伸ばしたクラーク博士の立像がある。入場料を500円取られるようだが、なかなか威厳のあるいい彫像である。ここで観光客は同じポーズで写真を撮るのが定番になっているとか。

クラーク博士は帰国後、友人の誘いで会社を興し、出資を募り「AMBITION」をもって7つの鉱山を買収したが、経営不振で1年半で破産、信用が完全に失われ、精魂尽き果てた博士は帰国からわずか9年後、59歳で生涯を終えた。

死に当たって自分が本当に輝いていた異国での8ヶ月を想い起こしただろうか。