チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

マハッラ(町内会)

マハッラについて

マハッラは日本でいう町内会だ。でも日本の町内会に比べて、かなり「濃い関係」にある。
ウズベク語大辞典によれば「いくつかの狭い道や、その道沿いにある家に住む住民を含む一部分」と、地域的コミュニティとして説明している。さらに「域内の問題や対立に対応し、地域を安定的かつ自立的に管理することを目指した仕組み」と役割定義している。
地域内の問題や対立とは、嫁姑問題、ドメスチックバイオレンス、離婚問題、母子家庭、貧困家庭への福祉資金供与、刑務所出所者のアフターケア、金銭貸借のこじれ、就職の世話など多岐にわたる。もちろん割礼の祝賀会、結婚式、葬式はマハッラの独壇場である。セレモニーを主催するだけではなく、マハッラのイメージに合わない結婚相手だと結婚が認められないなどの実質的個人干渉もある。マハッラ内には町内会館のような共有施設の他、パン屋が1軒ありその運営はマハッラが行っている。

離婚訴訟では関係者が裁判所に直接申し立てることはまれであるし、裁判所もマハッラの考えはどうであったかを考慮する。時にはマハッラに差し戻し、ということもある。マハッラは選挙で選ばれる代表(地区の尊敬されている長老が多い)の下に、有給の助手がつく。彼らは頻繁に住民の家に上がりこんで、問題はないかチェックして回る。住民の、住民による、住民のための強力お節介システムといったものだ。しかし、歴史的にウズベク人によって守られ、支持されてきた。多くのウズベク人はマハッラにそのアイデンティティをおいている。

都市では個人主義が先行し、マハッラの役割もいくらか形式的になってきている。しかし地方ではマハッラは住民の自発的参加によって運営されており、その行事、イベント参加はほぼ義務化されている。「マハッラは父親であり、母親である」というウズベクのことわざはあなたの村に当てはまりますかというアンケートに対して、定住民の伝統が強く、人的ネットワークが強いフェルガナ盆地、カシダリヤ州、ナボイ州では肯定的回答が80%を越える。都市部のタシケント州でも肯定的回答は6割を越える。

歴史的にも古く、ソ連の政治体制の下でも生き続けてきたマハッラであるが、非公式な人的ネットワークによる伝統的なマハッラもさまざまな要因に影響され、変化しつつある。それはマハッラを国家の行政機関のひとつとして、マハッラの組織、運営に国家が介入し始めたからである。マハッラの代表が長老ではなく、政府の役人に変わり、露骨な選挙介入もある。しかし、住民の中には福祉政策の充実や公共事業の発注など「お上」と結びついているほうが得策だ、と思う人々もいるし、政府系マハッラには予算の支出がスムーズであるから、一概に末端行政機関としてのマハッラがいけないというわけではない。

カリモフ大統領は、国家機関が伝統的なマハッラを強化し、法的権限の範囲を広げ、新たな権利をあたえれば、マハッラはその伝統的な仕組みを使って人々に物的支援のみならず、心をも癒す「空間」を与えると考えている。大統領は2003年を「マハッラの年」と定めて、行政改革の一環として、マハッラへの行政権限委譲を拡大した。

しかし、これにも難しい問題がある。自発的非公式組織であったマハッラが政府の下請けとなって、住民の権利侵害に一役買うことになりかねない。マハッラがソ連時代を生き延び、その伝統的機能を保持することができたのは、マハッラが政府とある程度距離を置き、住民の自発的参加で成り立っていたからである。
すでに西側メディアからはマハッラのプライバシー侵害、人権活動家への差別、パスポートなど各種証明書・許可書発給への恣意性(たとえばへジャーブというイスラム風スカーフの着用、非着用が証明書発行の条件となる)などが指摘されている。また男尊女卑の傾向が強い長老が女性からの離婚を認めない、などの例が報告されている。それにしても長年続いた慣習に基づくものだから、政府であれ、西側人権活動家であれ、マハッラの中身を短時間で変えていくことは難しい。

それよりも、マハッラ代表者である長老や助手が、マハッラのお金を横領する、とこれまで考えられなかったような事件が起こっていることが個人的には興味を引く。いかなる組織であれ、組織のトップによってその組織のありようは変わってくる。長年続いたゲマインシャフト、マハッラも拝金主義の前にもろく崩れていくのだろうか。


(本稿作成にあたっては駐ウ日本大使館の高橋書記官がご好意でお貸しくださった「マハッラの実像-中央アジアの伝統と変容、ティムール・ダダバエフ著、東京大学東洋文化研究所」を参考にしました)