チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

棉摘みを経験

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棉摘みを経験

土曜に授業をして研究室に戻ったら、学長がやってきた。何事かと思ったら、日曜に棉畑(写真)に行くので一緒にいこうとのお誘いだった。もちろん異論はない。タシケント・バンク・カレッジの生徒は今年の棉摘み動員を免れたが、市内にあるバンク・カレッジの姉妹校ファイナンス・カレッジの生徒が棉畑で働いているので、その慰問ということらしい。
当日、学長自らの運転で市内を後にした。学長の車はオペルの最高級車、乗り心地、加速更に言えば運転者、何も言うことはない。途中ファイナンス・カレッジの学長を同乗させる.学長同士は旧知の間柄だ。市内を離れると、一面、棉畑となる。夕日に染まりながら農民の集団が帰り支度を始めていた。行きかうバスも棉摘みの人で一杯だ。

約1時間弱のドライブでタシケントから50キロほど離れた農村にある小学校に着いた。もう作業を終えた生徒たちが校庭を掃除したり、洗濯物を広げたりしている。皆、気持ちよく「サレマレコン(こんいちは)」と挨拶をしてくれる。学校の周りには棉畑が広がる。「さあ、行くぞ」という学長と一緒に車で3分の棉畑に飛び込む。用意してくれたのは1メートル四方の粗い綿布、角にそれぞれ3,40センチの紐がついている。出来損ないの巨大越中フンドシといった感じのものだ。まず布を腰に巻き、紐で固定する。次に、残りの2つの紐を結んで輪にし、首にかける。そうするとカンガルーのおなかのような袋ができる。その中に摘んだ棉を入れていくわけだ。

バンク・カレッジのザイニディン学長は子供の時、綿畑で働いた経験があり、両手をピストンのように動かしながら棉を摘み取っていく。4つに割れた棉の実に指が触れたと思うときれいに棉を引き抜いていく。自分はといえば、綿の殻に引っかかったり、綿を引き抜いたと思ったら、まだ白い綿が実のほうに残ったりと効率の悪いことこの上ない。うれしそうに作業していたのだろう。学長が来年、バンク・カレッジに綿摘み動員令が下ったら、必ずミスター中西を引率教員に加えましょうというありがたい?オッファーをくれた。
夕暮れも迫っていたので、15分ほどで切り上げたが、袋の中にはマクラにするには充分の棉が入っていた。学校側の好意により、収穫した綿と巨大越中フンドシはお土産としていただくことができた。来年、きっと役に立つであろう。

さて、小学校の宿舎に戻り、プロフの出来具合や校舎内を見学して回る。ファイナンス・カレッジの2年生全員360名(男子200名、女子160名)が宿泊している。男子は講堂の床に簡易ベッド、あるいは布を敷き、その上に布団を敷いている。皆、持ち込み荷物である。講堂は裸電球が2個くらいついているだけで、かなり暗い。女子のいる大教室は電灯がつかず真っ暗で、女子生徒が学長たちに不満をぶつけていた。もちろん本を読むことはできない。
でも多くの生徒は学校で勉強しなくてもいいので、スポーツ合宿のノリか、まったく屈託がない。「オレ、今日100キロ摘んだんだ」と誇らしげに話してくれる子もいる。朝8時から夕方18時くらいまでの作業だが、朝方がんばるといくらか棉が湿り気を帯びていて重量が増えていいとのこと。あのカンガルー袋には20キロくらい入るらしい。
引率の先生は1週間交代であるが、生徒たちは土日も休みなしで2ヶ月働き続ける。

現地の先生に案内されて、ある1室に行くと果物、ハム、チーズなどヨーグルトなどのご馳走が机一杯に並べられている。ここにザイニディン学長はじめ3名のカレッジの学長と中等・高等教育省からの女性官僚2名が集まる。早速、ぶどう酒、ウォッカの栓が抜かれて宴会となる。ファイナンス・カレッジの学長は生徒が1日働いて疲れているのに、こんなところで酒飲んでていいのか、とこちらが心配になるほどウォッカをグビグビのんでいる。役人や学長のスピーチの応酬のあと、プロフが運ばれてきた。また太るなあと思いながら勧められるままに2500カロリーほど摂取。

宴会のあと校庭に出てみたら生徒全員が集まっている。本日は「教師の日」でセレモニーがあるらしい。役人や学長連の挨拶が続く。ザイニディン学長が「ヤポンスキーが、ヤポーニャが(日本人が)」と言っているので悪い予感がしたが、やはり生徒全員を前にしてのスピーチを求められた。「今日初めて学長と一緒に棉摘みを体験しました。学長は有能な方と知っているつもりでしたが、更に優れた能力をお持ちということがわかりました。短時間で棉を私の5倍も摘んだのです」と笑いを取り、生徒の苦労と努力を褒めたたえたが、後が続かない。仕方ないので同じアジアグループで戦いあう仲だが次のワールドサッカーには日本もウズベクも必ず出よう、と呼びかける余りしまりのないスピーチとなった。

ティーチャー・オブ・ザ・イヤーの選出、表彰で盛り上がったあと、ディスコ音楽が流れ、一転して会場は若者中心のディスコパーティへと一変した。自分も生徒たちに手を引かれて真ん中で踊る羽目に。ディスコというよりゴーゴーダンス、モンキーダンス、イカスなんて言葉がしっくり来る年代だ。やってらんないなあとつぶやきながらも、満面の笑みを浮かべ、ラップミュージックよりもビヤ樽ポルカがお似合いの女性教師相手にやけくそで踊りまくった。
アー、疲れた。