チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

例年行事に参列

 

 

チェンマイ戦没者慰霊祭ムーンサーン寺会場

チェンマイ名物、コボリさん

こんなものが展示されていた

チェンマイで亡くなった大伯父の話をする加藤玲子さん

テント下の列席者

祭壇へ一人ずつ献花


例年行事に参列

■8月に思うこと
8月に入ると日本は鎮魂の重い空気に包まれる。6日の広島原爆の日、9日の長崎原爆の日、12日がJAL123便墜落事故の日、そして15日の終戦記念日と続く。8月は高校野球があるし、青森ねぶた祭り、山形花笠祭り、よさこい祭り阿波踊り、郡上踊り等のお祭りがあるし、各地で花火大会も開催されるから夏休みの子供ばかりでなく大人にも楽しい催しが目白押しだ。でも自分としては8月のマスコミの戦没者の慰霊に黙祷、平和が大切という相も変らぬ反省ポーズには気が滅入るし、多少の違和感を持っている。へそ曲がりだから、ガザやウクライナで「爆撃で子供を含む20人の市民が犠牲になった」といったニュースに接すると子供、老人、女性など非戦闘員、十数万人を一発の爆弾で殺戮した国があったよな、東京の3月10日の空襲で一夜に10万人を焼き殺したよな、それをやったのはどこの国だったっけ、と言いたくなる。

自分も戦争は嫌だし、平和のほうがいいと思っている。だから戦争に我が国が再度巻き込まれないような手立てはないか、また巻き込まれたとしても負けないで済む方法はないか、と考える。そのためには大東亜戦争がどうして起こったか、なぜ負けたか、そこをよく研究して、一朝有事の際にはどうやって負けない、あるいはどうやって勝ち組に付くかを国策としてはっきりさせておく必要があるのではないかと思う。戦争はいけないが戦争で負けるのはもっと良くない。戦後80年の反省の歴史を見るにつけ戦争には負けたくないものだとつくづく思う。

チェンマイ戦没者慰霊祭
チェンマイ戦没者慰霊祭は2つの会場で開催されるが、今年も当時野戦病院があり、多くの日本将兵が亡くなったムーンサーン寺会場に行った。日本の武道館で行われる戦没者慰霊祭に合わせて挙行されるので、天皇皇后両陛下の黙祷に合わせ、時差のあるタイでは10時に黙祷に入る。自分がタイでのんびり暮らせるのも戦火に散った先人のお蔭と思っている。だから1年に1度くらいは感謝と追悼の念を捧げたいと思っている。

何度か書いているがチェンマイの慰霊祭は邦人有志の尽力で続いている。戦友が1970年に建てた慰霊碑が寺の敷地にあるから50年以上は続いているのだろう。1945年当時、日本兵が豚を飼ったり、野菜を栽培して地域の人に分けていたという。また病気やけがをした現地人を軍医が分け隔てなく治療した。毎日、地域の人、寺の僧侶が慰霊碑周りの清掃をしている。このように日本とタイの友好関係は戦争中から今もずっと続いているのですというムーンサーン寺檀家総代の追悼の辞は心打たれるものがあった。邦人有志も時折、慰霊碑の清掃に訪れるがいつも清掃の必要がないほど美しく整えられているという。慰霊祭の開催にあたっても会場設営に地元民や寺関係者が協力しているとのこと、タイ人の優しさはここにも顕われているのだと思う。

■遺族の話
ムーンサーン寺の野戦病院で亡くなった兵士の姪にあたる方が話をされた。亡くなったお母さんは父親代わりの長兄を「あにやん」と慕っていた。村から2人しか行かなかった高等女学校の進学を戦地から応援してくれたのもあにやんだった。認知症のお母さんはあにやんの話をすると笑顔になり、戦地から届いたあにやんの葉書を大切にしていた。文面には末の妹への思いやりが溢れている。あにやんは満州北部から1944年10月に激戦地のビルマに転戦している。戦後、かなりたって親族が生まれ故郷の県庁の照会した結果、あにやんが1945年12月にタイ、チェンマイで亡くなっていたことが判明した。享年36歳。お母さんと医師だった次兄は、戦争が終わって4ヶ月近くもあにやんは生きていたのに、医者の俺が助けられたかもしれないのにと2人で涙にくれたという。

お話をされた女性は70歳前後、以前は戦友という年代の方も慰霊祭に参列されていたそうだが、インパール作戦を経験した人はほぼ死に絶えたと思う。その死と共に戦争の記憶は失われていく。
今回のようにご遺族の話をお聞きしてそれぞれの思いをもって残された人の人生がある、ということを痛感した。慰霊祭実行委員会では、遺族の方のお話をこれからも続けていきたいとの意向があるようだ。数十人の慰霊祭参加者に、ご遺族の方は挙手して頂けますか、という司会者の声に2,3の手が上がっていた。

声高に平和が大事と叫ぶより、経験者の実体験を語り継ぐほうが戦争や平和の問題を考えるのに意味があるのではないかと思った。