チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

ザルツブルグの思い出 3

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ザルツブルグの思い出(3)

■英語もできずに・・・・
生まれて初めてのパネリストをやったのがザルツブルグ、それも英語だったのは忘れられない思い出だ。無料で外国へ行けるという単純な動機で応募したのだが、セミナーでは国の恥にならないよう精一杯だった。大体、英和辞書などを持って教室から教室に移動しているのは自分だけだった。講師の英語がほとんど聞き取れない。めちゃくちゃ下手な英語を話す南米の男がいたので、お前、さっきの話はわかったか、と聞いたら「当たり前じゃないか」などという。あとで彼の履歴を見てみたら、米国の大学でMBAを取得している。どうやら自分が参加者の中で一番、英語能力が低いようだった。

3度の食事と2度のティータイムには「さっきの講師の話、どう思う?」。「グローバルな経済が文化をもグローバルにするなんていっていたが、あれは言いすぎだよ、何故ならば・・・」などといった会話が飛び交う。相手から質問されると困るので、先ずこちらから質問、そして相手の話で賛成できるところを2点、疑問点を1つ見つけ出して、日本ではこのように考えるのが一般的だ、などといえば、相手はホー、ホーと聞いてくれる。それにしても知的交流が主体の集りで、自分の業績や儲けには関係のない世界であるから、討論や議論はいい意味でのハッタリ合戦となる。こんなところでちゃらちゃら話すシンクタンクの偽研究員は詐欺師と紙一重、自分は虚業の世界に生きているのだなあ、としみじみ感じたものだ。

■日中ピンポン外交
ザルツブルグセミナーの参加費はかなり高額だ。自分の場合、参加費は欧州往復の航空運賃とあわせ、経団連ですべて持ってくれた。参加費が高いと参加者が先進国に偏ってしまうといった配慮であろう、発展途上国の参加者は無料であった。中国から2名の外交官が招待参加していた。
ザルツブルグの宿泊施設にはピンポン台があった。中国外交官がピンポンをやろうというので付き合った。周りの白人が日中対決などとはやし立てる。自分の腕前は温泉卓球のちょっと上といったレベル。
結構いい勝負であったが、カット戦法で何とか6:4くらいでこちらの優勢勝ち。
翌朝、後ろのテーブルで彼とベルギーの官僚が話しをしているのが聞こえてきた。「昨日の日中ピンポン対決は結局、どっちが勝ったのかね」、「もちろん我々中国が大差で勝った。全く相手にならなかった」。あれから10年以上経つが、今頃は「尖閣列島東シナ海の油田地帯、それに沖縄は中国固有の領土である」などと言っているのであろう。この2名の中国人はいつも連れ立って行動し、ダンスやレクリエーションには全く参加しない。そこで「国際会議で難しいことが3つある。インド人のスピーチを短くさせること、日本人にスピーチをさせること、それから中国人を会議のあとのダンスで躍らせること」というジョークを作ってみんなに披露し、結構うけたものだ。

■参加者もいろいろ
ザルツブルグセミナーは長い歴史を持つから、スケジュールと内容は洗練されている。学び、遊びのバランスが実にいい。夜は市内から一流の音楽家を呼んでコンサート、あるいは講師のコンドミニアムを数人のグループで訪問し、家庭料理をご馳走になるという企画もあった。通常は大食堂、時には城内の小部屋で会食、三度の食事も同じものが出ないように工夫されている。いくらセミナーの内容がよくてもゴハンがまずければイメージはガタ落ちとなる。ワインもバーのスコッチも最高級といってよかった
概ね先進国からの参加者はあらゆる機会を捕らえて積極的に人と交わろうとしていた。でも出席を取るわけでも試験があるわけでもないから 食事時やバーではよく見かけるのに、教室ではさっぱり見かけない人もいた。発展途上国の政府機関勤務、ザルツブルグセミナーには何度も参加しているから、近郊の見所にも詳しい。たまに教室に現れると、その知識だけで皆の注目を集める。小学校のときに、長欠児童だがたまに登校してくるとクラスの人気を独り占めという子がいたが、それを思い出す。
「明日、もし晴れたらあのアルプスへケーブルカーで登ろう」とその男が提案し、何人かその話に乗った。自分も授業をサボるつもりであったが、残念ながら当日は雨。このケーブルカーは後年、火災事故を起こし、邦人にもかなりの死者が出た。でもあの時、ザルツブルグの思い出に登っておけばよかったかな、などと思うことがある。

画像はチェンライの市街にて