がんばっても報われない社会
5月21日の「言い訳」の中に書かれていた「がんばっても報われない社会」とはどういうことか、もう少しわかりやすく説明して欲しいという要望があったので、原田泰氏著「世相でたどる日本経済」(日経ビジネス文庫)を全面的に引用しながらご説明したい。
原田氏は本書で私的所有権確立の重要性を認めたうえで、社会のあり方がプロフィット・シーキング活動主体かレント・シーキング活動主体かで、経済発展の度合い、人の行動様式が違ってくると述べる。
アダム・スミスが「国富論」の中で述べたように、各人が自己の利益を最大にしようとする行動は、一般には社会全体に望ましい結果をもたらす。企業が合理化、生産性向上に努めるのは企業の利益のためだが、それが社会にとって好ましい結果をもたらしているのは明らかである。しかし、すべての利己的行動が社会全体にとって望ましい結果をもたらしているわけではない。たとえば国内生産者が政治的手段によって保護関税を要求するような行動を考えてみよう。国内生産者は自己の利益を最大にしようと努力しているだけだが、社会の利益は損なわれる。
以前、米国の自動車産業は日本に輸出“自主”規制を求め、自動車価格の吊り上げを図って成功していた。米国の自動車会社は、米国民一般の利益を犠牲にして自らの利益確保を図ったわけである。
企業の合理化、生産性向上の努力のように、市場で利益を得ようとする行動をプロフィット・シーキング活動と呼び、政治的な行動で利益を得ようとする行動をレント・シーキング活動と呼ぶ。もし、レント・シーキング活動が盛んになれば、経済全体の効率を促進するプロフィット・シーキング活動は低調になってしまうだろう。利益はコスト・ダウンや消費者のニーズに適合する新商品を開発することではなく、政府の保護を求めることから生まれるのだとなれば、誰も本来のプロフィット・シーキング活動を行わなくなってしまうだろう。
しかも、レント・シーキング活動の増大は、産業社会の根幹を支える信念を破壊してしまう可能性がある。高い所得が生産性にかかわりなく、レント・シーキング活動によって得られるものだと人々が考えるようになれば、まじめに働くよりもコネを探す、賄賂で便宜を図ってもらうという行動に出るようになる。
日本では明治維新、戦後改革を通して、がんばる人は報われるというプロフィット・シーキング社会を作り上げてきた。1900年においてアルゼンチンなど南米諸国は農産物輸出で潤っていて、ヨーロッパの国民所得と肩を並べるくらいの繁栄を謳歌していた。ヨーロッパの一流オペラ、オーケストラはこぞって演奏に赴いたし、成功を夢見てヨーロッパから南米への移民も相次いだ。
当時の日本は日露戦争前、アジアの貧乏国でヨーロッパから人が出稼ぎに来るような国ではなかった。しかしアルゼンチンはじめ南米諸国は1900年以来、レント・シーキング社会形成に邁進した。「工場で一時間執務するより、大臣室の前に一時間座ることによって高利潤を生む」社会を作ってしまった。それが今日の、南米諸国と日本を分けたのである。
ウ国はあまりにもレント・シーキングに偏った国だ。授業に全部欠席してもコネとお金があれば「優」が取れる。国立大学の入試もお金があれば学力どころか受けなくても合格するし、政府の給費生にもなれる。こういったシステムがまかり通っているところでは、まじめに働いても(まず就職するにも賄賂が必要だ)、その努力が報われる可能性は低い。
日本では国公立大学の入試、国家公務員試験、司法試験など、勉強してがんばれば、誰にでも公平に合格のチャンスがある。会社に入っても、がんばって成果をあげれば昇進して所得が増える可能性がある。
日本人はよく「がんばってね。」という。「なぜ、がんばってと言うのですか。」とこちらの学生は首をかしげる。我々日本人が「がんばってね。」というときは「がんばればきっといいことがあるよ、グッドラック。」という意味で言っていると思う。
しかし、がんばってもいいことなど起こらない、がんばるより有力者に口利きをたのんだり、賄賂を贈るほうがずっといいことが起こる国では、「がんばる」ことはダサい以上の意味は持たない。しかし、ベンチャーを起こす人には人並みはずれた「がんばり」がどうしても必要なのだ。それをどうこの国で教えていくのか? 頭が痛い。