チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

多民族国家

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多民族国家ウズベキスタン

タシケントの街角や地下鉄、あるいはバザールで行きかう人を眺めていると飽きることがない。いろいろな皮膚の、髪の、目の色の人がいる。スタンとは「の国」、「の土地」を意味する。ウズベキスタンウズベク人の国ということで、ウズベク人が国民人口2600万人の8割を占める。残りはロシア人、タタール人、タジク人、カザフ人など100以上の民族がいる。

中には30万人の朝鮮族もいる。スターリンが日本との戦争を意識して、日本のスパイになるかもしれないと沿海州に住む20万人の朝鮮族ウズベキスタンの荒地に移住させた。1930年代後半のことである。「これを強制連行と言わずして何というのですか。」と日本の外務省高官に聞いたことがある。
朝鮮族の若い人はもう母国語はしゃべれない。名前もナタリアとかセルゲイといったロシア風の名前になっている。「これを創氏改名、母国語簒奪と言わずして何というのですか。」と言いたくなる。それはともかく、朝鮮族がいるおかげでタシケントの在留邦人は、日本米、豆腐、海苔、キムチ、味噌、醤油などを手に入れることができる。

ウズベキスタン南部のテシク・タシュ洞窟で約4万年前、旧石器時代中期に属するネアンデルタール人の化石が発見されている。大昔から住みやすいところだったらしい。紀元前10世紀にはオアシス城郭都市が成立している。その後、アケメネス朝ペルシャアレクサンダー大王による征服があり、紀元2世紀からクシャーナ朝が栄え、カニシカ王の保護下で仏教の隆盛が見られた。玄奘三蔵大唐西域記には往路、タシケントサマルカンドを通過した記録がある。6世紀には突厥というトルコ系遊牧民の大帝国ができ、中国からビザンチン帝国にいたるシルクロード貿易を盛んに行った。その後アラブ系イスラム軍、チンギスハーンの侵攻があり、14世紀にはチムール帝国の成立を見る。

1991年に旧ソ連から独立したウズベキスタンは建国の父をチムール大王としている。

タシケント市中央にあるチムール公園には独立以前に聳え立っていたマルクス像を取り払い、馬上にまたがり、今まさに遠征に赴かんとしているチムール大王の像が建っているカリモフ大統領は自分とチムールを重ね合わせようとしているようだが、皮肉なことに16世紀にトルコ系のチムール帝国を滅ぼしたのは、中央アジア北方に興った遊牧民ウズベク族だった。

ネアンデルタール人から始まって、このウズベキスタンには数々の民族が入れ代わり立ち代わりやってきて興亡を繰り返した。肌の色も目の色も話す言葉も違う人々が住み、またシルクロードの交易を通して多くの人々が行きかった。万世一系の日本に生まれ、子供のとき外人を見たら「あっ、外人だ。」と身を硬くしていた自分には想像もつかない世界だ。だから今、タシケントの街を行きかう人の中にはベルベル人イラク人のように肌の浅黒い人もいるし、ロシア系の透き通る様な白い肌の人もいる。

昔、ナポレオンソロというテレビ番組があり、そこに金髪の「イリヤ・クリアキン」という優男が出ていた。またプロレスでユセフ・トルコというレスラーがいた。こういった顔をウ国で見かけることができる。またユセフ・トルコのようなお父さん、朝青龍のようなお母さんからシャラポワのような子が生まれることがある。逆もありうる。生まれる子の肌や目、髪の色については「ダブルOK」(このCMを覚えている人がいるのかどうか)どころか、「何でもOK」だ。

そういえばアライスクバザール内の食堂で、M新聞西部本社にいるはずの先輩、Mさんが1杯700スム(70円)のプロフをかっこんでいた。「Mさん、どうしてここへ。」と思わず声をかけそうになったが、Mさんより髪の毛が多いし、こんなところにMさんがいるはずがない。
それにしても顔や体型ばかりでなく、飯の食い方までそっくりだ。ウズベク族は蒙古とトルコ系の混血と言われる。日本人によく似た人がいてもおかしくはない。