チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

マンダレーひと回り

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マンダレーひと回り

■2日で充分
マンダレーミャンマー第2の都市、見どころは多い。1週間くらい滞在してもよいという旅行者もいるが、団体旅行では実質2日という旅程が多い。自分は4泊5日だったが、確かに2日あれば郊外のサガインヒル、ミングウォン、ウーベン橋を含め、行くべきところは全部回ることができる。交通機関はタクシー、トゥクトゥク、バイタクが主で、運賃は交渉となるがそれほど高くない。1日10ドルの貸しバイクはあるが、マンダレーは交通量が多い割には信号のない交差点が多く、4方向から来る車やバイクは阿吽の呼吸で突っ込んでくる。一旦躊躇したら動きが取れない。ミャンマー旅行上級者でなければ貸しバイクを乗りこなすことは難しいだろう。

マンダレー2日目はミングウォンから市内の歴史遺跡地域及びマンダレーヒルに行った。マンダレーヒルでは健脚老人に付き合って1700段の階段を上り下りしてヘトヘトになった。3日目はサガインヒルまでバイタクで1時間かけて行った。昼過ぎに戻って、ホテルでそのまま夜まで休息、やはり前日のマンダレーヒルでの疲れが取れない。

最終日3日目は再びマンダレーヒルへ、トゥクトゥクで往復1万チャット(700円)は安い。ちゃんとエレベーターのある8合目まで登ってくれた。現地人に聞きながらマンダレーヒル中腹にある戦没者慰霊碑を探し当て、暫し頭を垂れた。これで旅の主目的は達したと言える。マンダレーヒルでは第15師団(祭)歩兵第67聯隊(敦賀)が英軍と激闘を繰り広げた。慰霊碑をよく見ると「彼我戦没諸精霊」と彫られており、日本将兵ばかりでなく英軍の戦没者も併せて祀っていることがわかった。

■王宮見物
マンダレーヒルからホテルへ戻る途中、王宮に寄ってみた。マンダレーは1752年に成立し、1885年に滅びたコンバウン王朝の最後の都があったところである。王宮は1857年から建設を開始し4年の歳月をかけて完成した。約3キロメートル四方のほぼ正方形の敷地が、幅70メートルの濠 (ほり) と城壁に囲まれ、4本の橋と監視塔がある。外から見ると濠があるせいか大きな皇居といった感じを受ける。戦時中、王宮に日本の15師団が立てこもっていたため、英軍の砲撃を受け、建物は全て焼失した。建設当時のものは城壁だけで、現在ある建造物は1990年代に再建されたものである。
王宮はミャンマー軍が管理している。広い芝生の運動場があり、軍楽隊が演奏行進の練習をしていた。日頃、京都橘高校のマーチングバンドとか自衛隊中央音楽隊の演奏をPCで見ているので、なんだかなあ、と思った。

■植民地になると
王宮の博物館にコンバウン王朝最後の王、ティボー王の家族写真があった。
インドを手に入れた英国はビルマに対して1824年に第一次英緬戦争を、1852年には第二次英緬戦争を仕掛け、下ビルマを手に入れた。1885年には第三次英緬戦争を起こしてマンダレーの王都を攻略した。ビルマ側の戦死者300人足らずというからほとんど戦闘なしにビルマは降伏した。英軍は民心を買うためにインドに亡命していたティボー王の兄を王に据えると約束していたが、その兄はすでに死亡しており、偽の人物を連れて来ていた。もちろん王朝存続の約束は守られることはなかった。英軍は兵士ににマンダレー王宮、市内の略奪を許可した。略奪品を競売にかけて90万ポンドの利益があったと記録にある。この時、ビルマの女性がどういう目にあったかはいうまでもない。

英国は王子を皆殺しにした上、国王夫妻と4人の王女をインド・ボンベイ近くのラトナギリに流刑にする。国王直筆の英国政府宛書簡(1911年5月付)に「せめて一家が食べていけるよう、年金を上げてもらえないだろうか」と書かれているそうで、生活費にも事欠く悲惨な生活を強いられていた。
 困窮と辱めに加え、英国側は王朝復活の望みを断つように王位継承権第一位にあった第一王女、パヤ(ファヤ)王女をイギリス人ではなく身分の低いインド人従者に下げ渡す。 王家の悲劇を調べたインドのヒンディアン・タイムズ紙1995年9月16日付けによると、王女は結婚させられた英印軍属には正妻がいることがわかり、愛人となる。肉親とも離れ、インドの最下層の社会の貧困の中で死に、その娘、つまり国王の孫娘ツツはビルマ語も忘れ、教育も資産もないまま、最貧困層のインド人の妻となり、六人の子供を抱え、街角で造花を売って生計を立てている。その顔立ちに王族らしい気品を備え、それが哀れだったと伝えているそうだ。これが植民地になるということだ。

(日本は韓国国王の地位を保証し、皇太子に皇族の梨本宮方子妃を嫁がせ、宮廷、政界の主だった人々を貴族に列した。)


マンダレーヒルからククドーパヤを臨む、マンダレーヒルの慰霊塔、王宮入口、大砲は英国製、王宮内のティボー王夫妻の模型、王宮博物館の仏像