チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

葬儀を終えました

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葬儀を終えました

■一段落
脱出できたにも拘らず操縦機を人家のないところへ誘導して殉職した自衛官とか津波避難を放送で呼び掛け続けて自分は津波に飲まれた三陸の女性市職員のように語り継がれるべき死というものはある。でも母は市井の名もなき女性であり、その死は全く個人的なもので悲しむのは家族だけでいい。ひっそりとこの世から消える。女学校時代の友人もほぼ全員、また品川区のご町内の知り合いも大部分、お亡くなりになっている。お知らせするのもどうかと思われる体調の方も少なくない。

30年ほど前、母が「生者は死者の為に煩わさるべからず、というけど本当だねえ。私の時もこんな感じでやってほしいわね」と言っていた。この言葉は画家の梅原龍三郎の遺書にある。実際は「葬式無用 弔問供物固辞する事 生者は死者の為に煩わさるべからず」となっている。何とも潔い言葉だ。梅原は昭和61年に97歳でこの世を去っている。その頃に母この言葉を知ったのではないか。その母の希望通りだったかどうかはわからないが、タイで型通りの葬儀を行った。古典落語の「片棒」ではないが、葬儀は本人の思い通りにはいかないものだろう。でも息子としては多くのチェンライ在住邦人、並びに団地内の、そしてブアさんの出身村の人や100キロも離れたヴィアンカロン寺から参列してくれた僧侶や尼さん達のお陰で心の籠った葬儀を営むことができた。本当に感謝している。

母の死の如く、拙ブログもひっそりと休止するのが望ましいと思う。ただ「介護ロングステイ」と長年銘打ってきた以上、母の10年にわたるタイ生活の顛末をご報告する義務はあるように思う。

■全く苦しまずに
7日の11時過ぎにブアさんがドアと叩いた。「ママさんが息をしていない」。寝ボケ眼で階下に行ったら、もう兄が母の傍らにいて、首の脈を診、顔を近づけて「ああ、息をしていない」という。その時が突然来たことを悟った。兄が心臓マッサージを、と胸に手をかけたが、もういいだろうとそれを制した。骨折して入院したくらいだから心臓マッサージをしたら多分肋骨は折れる。これ以上、母に苦痛を与えたくなかった。10分後にやってきた救急車の隊員はすぐに蘇生術を開始したが、まあ無理だろうな、と考えていた。

ブアさんが付き添って病院へ、それを追うように兄と病院へ急ぐ。ER(救急救命室)では母の心肺蘇生処置が行われていた。若い医師が胸骨圧迫を慌ただしく繰り返していた。30分続けて蘇生しないようでしたら、死亡宣告ということになります、と医師が説明してくれたが、それから5分もしないうちに蘇生処置は終わりになった。心肺停止から20分以上経っているのだから蘇生はムリだ。死亡診断書に書かれた死亡時刻は23時47分、死因は呼吸不全となっていた。
蘇生のため母の周りで大奮闘していた医師、看護師、看護助手など大勢のスタッフがいなくなって、まだ温かみの残る母の傍らには兄と自分、そしてブアさんだけが残された。

遺体は午前3時頃、救急車に乗せられて自宅へ戻ってきた。ニイさんも駆けつけていて、ブアさんと二人の手で清拭、着替えが行われた。まるで眠っているよう見えた。大腿骨骨折で入院したのが10日前、退院して5日目の死去だった。骨折した時も自宅で切開個所の消毒して貰っている時も母は痛そうな表情をしなかった。死ぬ時もムニャムニャと口籠ったあと、ハァーと大きく息を吐いてこと切れたそうである。息子としては苦しまずに亡くなったことがせめてもの慰めである。欲を言えばきりはないが92歳、大往生といってもいいだろう。

■皆さんのお陰
翌朝7時に団地内に住むファーさん夫妻のトラックに乗って棺桶を買いに行った。日本と違って葬儀社がすべてを取り仕切ることはないようだ。ファ―さんは顔見知りで何度か一緒にお寺にタンブンに行ったことがあるくらいだが、ブアさんが頼んでくれたのだろう。納棺作業にまで手を貸してくれるファーさんに痛く恐縮した。でも微笑みと共に返ってきた言葉は「チュアイカン(助け合い)」。結局、このご夫妻に8日、9日の通夜、10日の告別式、並びに荼毘に付すまでお世話になった。自分は言われるままに必要なお金を渡すだけ。そして10日の夕方には領収書の束、出金明細一覧を書いた帳面そして残金を持ってきてくれた。
ファーさんばかりでなく、タイ人伴侶を持つ邦人にもお世話になった。タイ式葬儀のイロハも知らない兄、自分、そして旧盆で航空券の払底している折、高松から駆けつけてきた弟夫婦に作法を教えてくれたのは彼女たちだった。外人だから、と不調法な我々を暖かく見守ってくれたタイの皆さんにも合わせてお礼を言いたい。