チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

熟年ライダー(14)

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熟年ライダー(14)

■泰緬鉄道続き
やがて列車はカンチャナブリ駅から50キロ、ターキレン駅先のアルヒル桟道橋に差し掛かった。この橋はクウェー・ノイ川に沿って岩壁すれすれに作られた全長約300mの木造橋だ。皆、車窓から身を乗り出して写真を撮る。安全に渡るために、列車はこの橋にさしかかると時速 5kmまでスピードを落とす。。窓からは、敷設時に日本軍が爆破したでこぼこの岩壁、反対側の車窓からはゆるやかに流れるクウェー・ノイ川が見下ろせる。橋の前後には観光客が大勢いてカメラを構えている。木造橋を渡る列車はSNS映えがするのだろう。こんなところに鉄道を通したのか。叔父もきっとここを通ったに違いない。叔父ちゃん、大変だったね、と心の中で手を合わせた。

連結した車両にはタイ人がぎっしり詰まっていたが、自分の購入した乗車券は2等席だったようで座席もゆったりしていたし、外人客がまばら、といった感じ。車内販売も頻繁に来る。おばさんが自分の写真を撮っていたが、あとその写真と乗車券が対になった記念品を売りに来た。

ぼんやり車窓から外を眺めていたら車掌さんが2人、自分に近づいてきて挙手の礼をし乍ら「もしや警察関係の方では?」と訊ねる。前日、プラチュアップの空軍博物館で購入したキャップを被っていた。その帽子には空軍の標識が刺繍されている。この標識は警察や軍関係、ほぼ共通のようだ。車掌さんは帽子を見て「そのスジの方では」と勘違いしたらしい。メチャーイ(違うよー)と大笑いになった。こんな年寄りの警察官がいるはずない。そういえば前夜、チャアムで通り掛かりの若者にレストランの場所を聞こうと話しかけたら慌てて逃げていった。さてはこの帽子のせいであったか。

■終点折り返し
2時間足らずの鉄道の旅、終点のナムトック12時35分に着いた。ナムトックはタイ語で「滝」の意味だ。この駅周辺はサイヨーク国立公園になっており、公園内にはサイヨーク・ノイ滝がある。滝の入り口には日本軍が使用した蒸気機関車が展示されているそうだが、見る時間はあるだろうか。
駅前にはソンテウやタクシーが群がっていて、この先の観光地案内に余念がない。しかし、帰りの電車は折り返しが12:55発、その次が最終で15:30発、最終で戻るとカンチャナブリ到着は18時頃になってしまう。今日は泰緬鉄道に乗るだけでいい、と決めて昼食も摂らず、ナムトック駅滞在20分で折り返しの電車に飛び乗った。。往路と同じく車内販売があったので、ドーナッツを買って昼食とした。復路は指定席ではなかったがやはり2等車、車窓の風景はまず眼下にクウェー・ノイ川を見乍ら進む。アルヒル桟道橋の先のタキレーン駅では多くの人が下りた。ファランの観光客に交じって日本の団体客もいる。泰緬鉄道関係者の孫の年代だ。泰緬鉄道の歴史など知らないもしれない。自分が叔父のことばかり考えていたので、つい、この邦人団体も関係者かな、などと考えてしまう。

タキレーンは龍の意味だがS字状に蛇行するアルヒル桟道橋が龍のように見えるのだろうか。ここで下りた観光客は1日、2,3本しか列車が通らないので、桟道橋を渡って眼下の川を眺めたり、途中にある洞窟を訪れるらしい。

ビルマで現地召集か
桟道橋を過ぎ、キャッサバやサトウキビ畑が広がる平地を進む。遠くに山が霞んで見える。泰緬鉄道は1942年に工事が始まり、翌年の10月に全長415キロの鉄道が完成した。叔父は軍属として建設工事に携り、現地召集で2等兵になったと言っていた。終戦後、叔父は英軍の捕虜となった。使役のため全員小走りで作業場へ向かう。体力がないので、すぐに休止する。丸太に腰を下ろすと痩せこけて丸太にお尻の骨がじかにあたって痛かった、そんなとき、ビルマの女の人が籠に入れたバナナなどを渡してくれた…、そうだ、ビルマで捕虜になったのだから、泰緬鉄道完成後の1943年10月以降、ビルマで兵役に就いたのだろう。
現地人労働者も連合軍捕虜も犠牲が出て大変だったと思うが、日本軍にとってもラクではなかった。日本兵は率先して働いたから捕虜よりも死亡率が高かった。

戦後、英国軍は泰緬鉄道のビルマ側の線路を撤去して英国に持ち帰ってしまった。もし、そのまま鉄道が残って泰緬両国で活用されていたら、タイとミャンマーの経済発展、協力関係は今のものと全く違ったものになっただろう。英国はアジアの国が発展することを望んでいなかった。それどころか、米国の反対で頓挫したがタイを占領し、植民地にしようと企んだくらいだ。



写真はカンチャナブリ駅の車両、タイ空軍のキャップ、アルヒル桟道橋、ターキレンの駅に降りる人