アカ・フードフェスティバル
■アカの村で暮らす夢
チェンライに初めて足を踏み入れたのは2002年のことだった。今から15年前になる。その時、アカ族の村、パナセリに案内して貰った。それが縁でアカ族に興味を持ち、本やネット記事、英文も含めて読み耽った。その後、毎年のようにチェンライを訪れ、その度にパナセリに泊まった。実地調査というほどではないが何度か訪れてみると、なるほど、こういうことか、と腑に落ちることがある。知識は体験によって立体感が出てくる。アカ族はね、などと一方的に喋ったり、アカ村訪問記をメールで送りつけたり、アカ族に全く興味のない友人を閉口させたものだ。拙い英語でオーストリアの退職判事夫婦にアカ族の講義をして「やはり貴方はそちらのフィールド(アカデミック)の方でしたか」と感心されたこともある。ただ、知識がマニアックで普通の人は知らないだけ、みな迷惑していたと思う。
北タイ通いが嵩じて将来はアカ族の村で暮らすことを考えた。小さな茅葺の家を建ててもらう。掃除、洗濯をする通いの小女を一人雇い、自分は座卓に向かってひたすら筆を走らせる。ま、硯と筆の時代ではないからラップトップコンピュターのキーボードを叩くという生活を想い描いていた。アカ語を覚えなければ、と「タイ山岳民俗言語入門」という本も買った。「民俗調査ハンドブック」も購入し、これをもとに長期の実地調査を続ければ、少なくともネットで読んだ院生の修士論文より面白いものが書けるに違いないと思った。退職後の趣味としてそう悪くないのではないか。よしんば書くことができなくても、山間の村でタイ焼酎、ラオカオに溺れ、アル中の生涯を終えるのも村の人にはともかく、日本の兄弟、親戚、友人に迷惑をかけずに済む。
■挫折
タイに移り住んだ理由がアカ族の村に住む、ではなく、まさか母の介護になるとは全く予想していなかった。でも介護が終わったら、アカ族の村に移り住もうという気持ちは持ち続けていた。パナセリの副村長、アダムからも自分の将来構想に関し内諾を得ていた。
でも、その後、アカ族の村に1週間ほど暮らしてみて、決意が鈍る事態に遭遇することとなった。それはアカ族の料理の味付けが、塩だけ、ということである。ナムプリックという唐辛子ソースがアカの料理に出てくる。タイ料理ではナムプリックにカニ味噌やナンプラーを入れるが、アカ村では唐辛子に塩とあとは大蒜くらい。スープも味付けは塩のみ。
人間の三大欲望と言えば「食欲」、「睡眠欲」そして「性欲」だ。アカの村で暮らすには欲望第一位の食欲を諦めなければならない。人間、どこでも眠ることはできるし、もう一つの欲望もかなり薄れた。残り少ない我がロスタイム、まだ自分の歯で噛めるうちに美味しいものを食べたい。そう思うとアカ族の村での暮らしが色あせたものに思えてきた。せっかく覚えたアカ語も「グロフマ(ありがとう)」、「ジョサドエミアロ(ご機嫌いかが)」くらいしか思い出せなくなった。
■アカ・フードフェスティバル
8月末にセンジャイパタナで行われたブランコ祭りでは、同時にアカのフードフェスティバルが行われた。会場では各家から集めてきたのだろう、藤で編んだ丸い食卓が30ほど並べられ、その上にアカのご飯、スープ、おかず、そして果物が所狭しと並べられていた。ご自由に召し上がれ、とアカの民俗衣装をまとった女性が勧めてくれる。やはり調味料は塩だけであるが、野菜入りオムレツ、豚肉の発酵ソーセージ、ネーム、それに唐辛子入り肉ミンチ、それにタケノコの和え物など、多くの食材を使ったご馳走だ。陸稲と思うが何種類もの白米が並んでいて噛みしめると米本来の懐かしい味がする。アカ族は10種類程の米を栽培するとか。
あれ、アカの食事ってこんなに美味しかったっけ。アカ料理といえば昆虫食が外せないが、この日はタケムシがあった。バター味のかっぱえび煎といった感じ。昆虫食を嫌う人は多いが、昆虫は飼料は要らないし、採取は簡単、虫が生命を維持するために必要な栄養素がすべて詰まっているので、総合栄養食と言える。パナセリでもミツバチの子をご馳走になったことがある。昔から蜂の子は必須アミノ酸9種全部が含まれる高蛋白食材として知られている。タケムシも高蛋白、食べるとおっぱいの出が格段に良くなるというから、男性も精力が付くのではないか。
どうもアカの食事に偏見を持っていたようだ。2週間のインターバルでアカの村と市内での生活を繰り返すか。なんとなく我がロスタイムにも展望が開けてきたように思う。
4枚目、タケムシ、最後は餅、くっつかないよう荏胡麻を振り掛けます。