チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

慰霊祭参加(1)

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慰霊祭参加(1)

戦没者慰霊祭
今年も8月、慰霊祭の季節がやってきた。6月にクンユアムのタイ日友好記念館を再訪し、記念館の向かい側にあるワット・ムアイトーに林立する戦没者慰霊碑に拝礼した。その慰霊ムードが消えやらなかったこともあり、例年8月15日に開催されるチェンマイ戦没者慰霊祭実行委員会主催の慰霊祭に、今年も参列させてもらうことにした。

今年はチェンライ日本人会でミニバスを仕立ててくれることになった。チェンライからは総勢6名。慰霊祭は、武道館で天皇皇后両陛下臨席の下で開催される日本の慰霊祭に合わせて行われる。タイ時間では10時開始。この時間に合わせてチェンライを出発するとになると郊外在住者は参加がちと難しくなる。従って今年は前日の14日に出発し、チェンマイ周辺にいくつかある慰霊碑に詣でて1泊、翌15日のに慰霊祭に臨むことになった。

チェンマイ戦没者慰霊祭は2か所で開催される。一つはチェンマイ市内のワット・ムーンサーン、そしてバンガート・ウィッタヤーコム中高校だ。ムーンサーン寺には戦時中、野戦病院があり、特に重傷者が収容されていたという。またバンガード高校にも野戦病院があり、敷地内の井戸から多数の日本将兵の遺骨が発見されたことから、ここでも慰霊祭が執り行われている。

■戦病没者慰霊の碑
終戦の日はムーンサーン寺の慰霊祭に参加するので、この日はもう一つの慰霊祭会場となるバンガード高校に向かった。チェンマイの南30キロにある。着いてみると毎年慰霊祭が行われているせいか、学校のゲートには日本語で学校名が書かれていた。学校の広い敷地の一角に池があり、辺りには樹木が整然と植えられている。その公園のような場所に「タイ ビルマ方面戦病没者追悼の碑」と書かれた看板があった。暫く歩くと公園の端に丸い石の球を四方から支える高さ5mほどの慰霊碑があった。翌日に開催される慰霊祭の準備で慰霊碑前にはテントが張られ、その下にプラスチックの椅子が並べられている。

この慰霊碑の下にかつては井戸があり、そこから約300体の遺骨が発見されたという。慰霊碑は平成5年の建立、慰霊碑から50mほど離れた場所に平成13年建立の大きな鐘楼があった。階段を登った楼台の中央に重さ1.5トン、長さ1.5mという青銅製の大梵鐘が吊り下げられている。梵鐘には、戦争罹災孤児引揚養護施設「洗心寮」を昭和天皇がご訪問された際、陛下が戦災孤児との対面に感動され、賜りなされた御製「みほとけの おしえまもりて すくすくと 生い育つべき 子らに幸あれ」が刻まれている。先帝陛下の御製が刻まれた梵鐘は世界にあと一つ、養護施設洗心寮のあった佐賀県因通寺にあるだけという。

 また、浄土真宗西本願寺派門主の揮毫による「南無阿弥陀仏」の称号と、当時の遺族会会長橋本龍太郎首相の揮毫による「安らかに」の文字が鐘に刻まれている。インパール作戦では佐賀県人で構成される部隊から多くの戦没者が出た。その縁からか、寄付者の中に佐賀に本社を置く製薬メーカー、久光製薬の一際大きなプレートがあった。鐘楼に登り、交代で鐘を撞いた。低く、荘厳な鐘の音は戦病没した将兵の心に届いただろうか。

■残留兵士の建てた慰霊塔
バンガード高校から1時間足らず、チェンマイ、ランプーンの県境にその慰霊塔はあった。「噫忠烈戦没勇士慰霊塔」とだけ刻まれていて、建立者、建立日、寄付賛同者の名前もない。高さ5mほどの白くさびしい慰霊塔だ。この慰霊塔は「菊敗れるときは日本敗れるときなり」と勇名をはせた第18師団(菊兵団)の生き残り、藤田松吉氏が独力で建てたものである。

物量に勝る英印軍に追われ、藤田伍長はビルマのフーコンからタイに敗走する。左脹脛、貫通銃創の重傷を負っていた。戦後チェンマイ近郊で行動を共にしていた部隊に取り残され、タイ在住を決意する。30年振りに帰国したが、予定を切り上げてすぐにタイに戻った。財産を取られると思った兄弟との確執がもとだった。金が欲しくて日本に帰ったんじゃない。彼はランプーンで農園主になり、作業の傍ら戦友の遺骨を収集した。800体の遺骨は自ら建てた慰霊塔に納めた。わしが掘らなければ誰が遺骨を掘る、わしが供養しなければ誰が供養する、どうして日本は金、金の世の中に変わってしまったのか、なぜ日本から遺骨収集に来ないのか。

軍人としての誇りと意地を貫いた藤田松吉伍長は2009年に90歳の生涯を閉じた。慰霊塔の後部には直径40僂曚匹粒犬あった。何回となくこの蓋を持ちあげて戦友の遺骨を納めたのだろう。彼のやるせない怒りを思いながら、慰霊塔に水、果物、そして線香を供えた。



写真はバンガード高校の慰霊碑と鐘楼、鐘を撞いているところ、藤田氏建立の慰霊塔、何も書かれていない後部に注目