ミャンマーの旅(13)
■ビルマのウェストミンスター寺院
シュエサンドーパゴダから道路を挟んでイワラジ河方向を見るとひときわ大きな寺院が見える。この寺院がビルマのウェストミンスター寺院と呼ばれるアーナンダ寺院だ。紀元1105年、パガン王朝の第3代チャンシッター王によって創建された。この寺院は、モン様式ととインド様式の2つの建築様式が混じり合っているという。
東西南北、一辺の長さが130m、中央の大伽藍は高さ63m、この伽藍の東西南北それぞれに高さ20メートルほどの美しい仏像が安置されている。
あるときチャンシッター王の宮廷にインドのガンダマダナ山から8人の聖僧がやってきた。信心深い王は彼らのために僧院を建て、雨安居の3か月間は毎日食べ物を供した。王はインド神話にあるガンダマナ山のナンダムラ洞窟を見たいと切望するようになった。ある日、そう懇願すると、僧たちは呪文を唱えて王の面前に洞窟を現出した。王はそれをモデルとしてアーナンダ寺院を建設したという。寺院とインドの関係を彷彿とさせる伝説である。
寺院は1975年の地震で被害を受けたが、その後修復され、大伽藍尖塔は金色に彩色されている。修復時に白く塗られたという壁は黒い地肌が見えているが、それはそれで風情を感じさせる。
寺院の前は広場になっており、大型バスや馬車が駐車している。バスは日本の中古バスで、車体にはバス会社の名前がそのまま残っている。ミャンマーの車は右側通行であるから、日本製バスが片側一車線の道路に停車すると、客は反対側車線に降ろされる。 降車、即、人身事故ということになるが、バガンは広場や空き地が沢山ある。バスはそこに乗り入れるので道路で観光客が降ろされることはまずない。ただ寺院や有名パゴダの駐車場は泥地、よくて砂利道であるから、乾季は土埃が舞い立っており、雨季は悲惨な泥濘となると思う。
■思わず合掌
寺院内は薄暗く、4面の仏像は照明に浮かび上がり一段と厳かに見える。四体とも釈迦像かと思ったが、過去仏が三体、ゴータマ・ブッダが一体という。仏教に詳しくない自分としては金色に輝く仏像に圧倒され、それぞれ合掌して歩いた。四体の仏像が安置されている伽藍は回廊となっていて、ぐるりと一回りするとまた元の場所に戻ってくる。四つの仏像のうち、北と南に面している仏像はバガン様式のオリジナルで創建当時のもの、東と西に面している仏像は、後期コンバング又は、マンダレー様式で造られているが現代仏と呼ばれているから比較的新しいものだろう。寺院内にはアーチ型の天井を持つ回廊が2つあり、壁画や壁龕に納められた多くの仏像を見ることができる。壁龕の仏像はお釈迦様の28の悟りの境地を表わしているという。寺院には団体客が次々と入ってくるから、詳しいことは団体の後ろでガイドの説明を聞くといいのだが、フランス語やドイツ語が多く、日本語ガイドは残念なことに出会わなかった。
■考古学博物館
アーナンダ寺院から300mほど離れたところに、道路を通せんぼするようにタラバー門がある。紀元894年にピンピャー王によってバガンを守るために造られた。この門に連なる城壁とイワラジ河に囲まれた部分が旧バガンと呼ばれる。旧バガンに入って100mほど行くとバガン考古学博物館がある。入場料は5000チャット、入り口でカメラを預けるシステムとなっている。入ってすぐの広いホールにはバガンで発掘された石仏が展示されている。タイの仏像とは違って表情に深い精神性が感じられる優れた彫刻ばかりだ。ホール正面はバガンの夕焼けを描いた巨大な壁画となっていて、見る人の目を奪う。2階展示室には仏像の他、サンスクリット、パーリ、更にビルマ文字が刻まれた碑文が多数展示されている。
バガン王朝は11世紀から13世紀にかけて栄えた。王朝は13世紀末に蒙古軍に攻められて滅亡の道をたどる。バガン王朝は北宋の宋書、諸蛮誌にも現われ、アラビア、ベトナムといった大国と同等の扱いを受けていた。同じ頃、北タイではランナー王国が興り、元の侵入を恐れて、チェンライ、チェンセン、チェンマイと遷都を繰り返していた。コロコロ首都を変える作戦が功を奏したのか、ランナーは蒙古軍の蹂躙を免れた。しかし、ランナー王国には文字がなく、同じ仏教国でありながら、芸術的価値を持つ仏像は殆ど存在しない。ランナーは王国とはいえ、西のバガン、東のクメールの文明国に挟まれた未開の土豪国扱いだったのではないか。今でこそ、タイはミャンマー、カンボジアを下目に見ている(と思う)が、歴史をたどれば国の盛衰など一瞬のことであると得心する。
アーナンダ寺院、どこでも見る日本製バス、寺院の仏像、タラバー門、博物館収蔵の石仏