チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

北タイの城壁に思う

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北タイの城壁に思う

■城塞都市
4月から本格的な暑季に入ったが、暑季の前は乾季でスコールもなく、気温もそれほど上がらず過ごしやすかった。乾季は観光のハイシーズン、ランパン、ランプン、プレー、スコタイ、カンペッペ、ナーン、チェンマイ等、北タイをフォルツァやカリビアンでドライブ旅行。1,2泊、長くても4泊ほど。

前述の北タイの地域には昔、王国が栄えていた。王国と言っても土豪国で日本でいえば江戸時代の藩のようなものか。王都があったから城下町と言っていいかもしれない。でも訪れた都市には城はない。ナーンやプレーには王様が住んでいたお屋敷が残っているが、西欧様式の邸宅で、城のイメージとは異なる。王都であったことを代わりに示すものは街を囲む城壁だろう。ザルツブルグハンブルグストラスブールなど多くのヨーロッパの都市は城塞都市で、タイの都市と同じく、異民族の侵攻の際には近郊住民全員が城壁の内側に立て籠もって戦った。異民族との戦いに敗れれば皆殺し、あるいは奴隷にされるのだから、兵士も農民も商人も一蓮托生、総力戦だ。

幕末の頃、長崎の出島にいたオランダ人が出入りの商人に、「外国人が攻めてきたらどうするのか」と尋ねたところ、「戦はお侍さんの仕事、私たちは関係ありません、さっさと逃げます」と言われ、呆れて言葉を失ったという。
関ヶ原の戦いの時、農民は弁当持参で山の上から合戦を見物していたというし、合戦で田を荒らされた農民が徳川家康に抗議して、補償金をもらったという記録もあるそうだ。

■強盗殺人の歴史
遊牧、畑作の交じりあった有畜農業が行われていた北ヨローッパでは、慢性的に食糧が不足していた。天候不順で小麦が実らない、羊や牛が死ぬといった状況になれば、人々はより豊かな土地へと南下していった。南下というと耳障りがいいけれども、簡単にいうと人を殺して食い物を奪う、ということだ。食糧を奪われ、皆殺しにされてはかなわないから、攻められるほうも城壁内にありたけの食糧を運び込んで籠城戦に持ち込む。
殺して奪う、は西欧のお家芸キリスト教の元締、ローマ教皇も強盗殺人を奨励したものだから、20世紀の初めには白人国は世界の陸地面積の85%を支配するに至った。

話を元に戻すと、タイは半島だが陸続きでミャンマーラオスカンボジアと接しているから異民族の侵攻を受けた。もちろん、タイが隣国に攻め込んだこともある。言葉や肌の色が違う異民族と戦うのだから「話せばわかる」ということはない。徹底的にやる。 タイの歴史を見るとxx国が攻めてきて、そのあと、○○族が入植し、○×国ができた後、●×族の×●国ができた、と国やら異民族が目まぐるしく入れ変わる。常に異民族の侵入があったし、チェンライに興ったランナー王国は、元の侵攻を恐れて、チェンセン、チェンライ、チェンマイところころ王都を移している。
熱帯から亜熱帯に位置し、食糧に困ることはないのにどうして戦いが日常だったのか。インドシナは土地は豊富にあるが耕す人がいない。それで、戦いを仕掛けて、住民を連れ去る。領地ではなく人を奪い合ったようだ。スコタイもナーンも戦いに敗れた後、街は廃墟になり何百年もジャングルに覆われていた、という。

■人骨=ご先祖
タイの世界文化遺産の一つ、バンチェン遺跡は紀元前3000~2000年頃のものと推測されている。ウドンタニにある遺跡博物館には発掘現場がそのまま展示されていて、多くの人骨を見ることができる。遺跡に暮らしていた人の身長は平均170儖幣紊△辰燭箸いΔら、今のタイ人やラオス人とは全く人種が異なる。どこの民族とも特定されていない。今、バンチェンに住む人は200年前にラオスから移住してきたことがわかっている。

タイ東北部、ピマーイ近郊にバーン・プラサートという墳墓遺跡がある。5mほど土を掘り下げた地底に、何体もの人骨が展示されている。ここの人骨も現代のタイ人とは似ても似つかない。先史時代の人骨だが、首がなかったり、頭骨が割られていたり、ミステリに包まれている。昔から殺し合いをやっていたことは確か。

日本では遺跡から人骨が出てくれば、あ、我々のご先祖だ、と得心する。
先頃、山口大学岡山大学が約1万年に及ぶ縄文時代の人骨を全国242カ所から2582点収集し、暴力による死亡率を数量的に算出したところ、傷を受けた痕跡があるものは23点で、暴力による死亡率は約1.8%となった。他国や他時代の暴力死亡率と比べると、5分の1以下と極めて低いことが判明した。我が先祖は昔から平和主義だった、というより島国で異民族の侵攻がなかった、という特殊条件のお陰だろう。





写真はナーンの城壁、外側と内側、外側には堀がある。3枚目はカンペッペを囲む城壁、4枚目はランパンの城壁、車はカリビアン。5枚目ナーン領主のお屋敷、6枚目プレー領主のお屋敷、いずれも博物館になっています。