チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

風土と政治

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風土と政治

和辻哲郎の「風土」
和辻哲郎の「風土」は50年前は学生必読の書だった。
和辻は1927年に船に乗りドイツに留学する。湿気と暑熱のインド洋から乾燥の沙漠地方を通過した3月も末、地中海で彼は牧草の緑の輝きに感動する。船上で親しくなった京大教授大槻政男氏から「ヨーロッパには雑草がない」という驚くべき事実を教えられ、そこから「風土」の発想を得たという。

「風土」では風土の型が国民文化を形作る、と説く。
彼はその風土の型を(1)モンスーン、(2)砂漠、(3)牧場という、3つに大別した。

日本も中国もモンスーン型にくくられているが、中国をよく見れば揚子江黄河により、砂漠とモンスーンの2つが混在しているという。
揚子江地方は水郷であり、黄河地方は乾燥地である。また揚子江の平野は米作地であるが、黄河の平野は麦作地である。これらの特徴は、黄河が砂漠から出てくる川であるという一語によって言い尽くせるであろう。すなわち黄河とは砂漠とモンスーンとを媒介する川なのである。こう考えるとシナの人間は砂漠的なるものと無縁ではないと和辻は説く。

■食糧生産の歴史から
和辻と同じことを川島博之という東大の准教授が「食料生産の歴史から見た中国政府の“気質”とは」というレポートで書いている。以下、川島准教授の受け売り。

人類が食料を生産する方法は大きく3つに分類できる。遊牧、畑作、コメ作である。日本はコメ作の国である。一方、モンゴルなど中央アジアの国々は遊牧によって食料を生産してきた。南ヨーロッパでは畑作が盛んだった。一方、寒冷で畑作だけでは十分な食料を確保できなかった北ヨーロッパでは、畑作と遊牧がまじりあった有畜農業が発達した。

 中国には2つの食料生産方式が併存する。黄河流域を中心とした華北は畑作。長江流域を中心とした華南はコメ作。

 中国を統治する王朝は黄河流域に都を置く。主な王朝の都は、秦が咸陽、前漢と唐は長安北宋開封、明(当初は南京)、清、中華人民共和国は北京である。 北は乾燥しており馬が交通手段になる。一方、南は河川や水路が多いから船での移動。鉄砲が発明されるまで騎馬軍団が最強の軍隊であった。

 中国は西域やモンゴルからやって来る騎馬軍団に苦しんだ。華北に住む人々は度々騎馬軍団と対峙してきた。そのために、自分でも騎馬軍団を操れるようになった。
中国を最初に統一した王朝は秦であるが、畑作地帯に住む人々が騎馬民族の軍事技術を取り入れて強くなった。その結果、中国を統一することができた。

■2300年間、力で支配し続けてきた
畑作地帯に住む人々と水田地帯に住む人々は気質が異なる。水田地帯では水管理が重要になるが、河川から水田に水を引く作業は1人ではできない。村人との協力が必須になる。そして、河川や水路が堀の役割を果たすから外敵に襲われる危険性が少ない。

 また水田は生産性が高いから食料に困ることもない。そんなわけで、水田地帯の人々の意識は村の中に集中する。他の地域を征服しようとは思わない。

 一方、畑作地帯では水は雨によってもたらされるから、水管理において隣人と協力する必要はない。だから自分勝手が許される。そしてどこまでも地続きだから、突然、馬に乗った軍団が押し寄せてくる可能性がある。また水田に比べて生産性が低いから、食料が不足することも多い。
 中国の政権はそんな畑作地帯に作られた。政権を作った人々は南の水田地帯から食料を収奪した。中国ではこのようなことが秦の始皇帝以来2300年間にわたり行われてきた。

中国では長い期間にわたって、畑作地帯に拠点を構えた政府が南の水田地帯をあたかも植民地のように扱い、食料を収奪するシステムが続いてきた。そんな中国では、北に作られた政府が一度出した命令を撤回することはない。話し合いによって妥協点を探ることもない。強引に支配するだけである。

 これが中国政府の習い性となった。いくら厚顔無恥と言われても、たとえ間違っていても訂正などしない。全ては力によって解決する。

■妥協することを知らない
中国政府が高圧的、厚顔無恥であることには長い歴史がある。昨日今日始まったことでない。共産党が悪いからあのような態度に出るわけではない。
 中国の行動様式は2300年の歴史が規定している。だから、あれこれ言っても始まらない。中国政府が自分の行動様式を恥じて、そのやり方を改めることはない。隣人である日本はそのつもりで付き合って行くしかない。以上。

和辻哲郎が生きていたら「風土による人間の性格、習性、風俗などは書いたが、政治の分析を忘れていたなあ」と呟くことだろう。


写真は毎週土曜のタンブン