チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

天皇皇后両陛下ペリリュー島ご訪問

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天皇皇后両陛下ペリリュー島ご訪問

天皇皇后両陛下は、本日、4月9日にペリリュー島で西太平洋戦没者の碑と米陸軍の慰霊碑にそれぞれ供花される。

昭和19年11月、島を守る1万500名の日本軍は2カ月半の戦闘の末、玉砕した。日米双方の死傷者は2万1千名を数えたが島民の死者はゼロである。
以下はブログ「ねずさんのひとりごと」をまとめたものである。


昭和18(1943)年、米軍は、チェスター・ニミッツ提督の指揮下、パラオペリリュー島の攻略作戦を計画した。

当時、ペリリュー島には、899名の島民がいた。
米軍は、刻一刻と迫ってくる。

島民たちは、過酷な白人統治の時代を、また、日本統治の時代も、身をもって経験している。

日本兵と仲良くなって、日本の歌を一緒に歌っていた島民たちは、集会を開いた。
そして全会一致で彼らは、大人も子供も一緒になって日本軍とともに「戦おう」と決めた。

こうした全員参加会議という制度は、現代にも受け継がれているパラオ古来の慣習で、全員がひとり残らず納得するまで、何日でも続けて行われる。そうして、みんなの意思を固める。
全員一致で「日本軍とともに戦う」と決めた彼らは、代表数人で守備隊長のもとに向かった。当時のペリリュー島の守備隊長は、中川州男(なかがわくにお)大佐。

中川大佐は日頃からもの静かで、笑顔の素敵なやさしい隊長さんだったという。
温厚で、日頃からやさしい人であっても、胸に秘めた決意というのは、体でわかるものだ。そして中川隊長なら、パラオの島民たちの頼み、「一緒に戦うこと」をきっと喜んで受け入れてくれるに違いない。
だって、ただでさえ、日本の兵隊さんたちは兵力が足りないのだから。
ペリリューの村人たちは、そう思い、守備隊の指揮所を訪ねた。

そして中川大佐に、「わたしたちも一緒に、戦わせてください!」と強く申し出た。
「村人全員が集まって決めたんです。これは村人たち全員の総意です。」

中川隊長は、真剣に訴える彼らひとりひとりの眼を、じっと見つめながら黙って聞いておられた。一同の話が終わり、場に、沈黙が訪れた。

しばしの沈黙のあと、中川隊長は、突然、驚くような大声をあげた。
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるかっ!」烈迫の気合だ。

村の代表たちは、瞬間、何を言われたかわからなかったそうだ。
耳を疑った。(俺たちのことを「土人」と言った?)

そのときは、ただ茫然としてしまった。
指揮所を出てからの帰り道、彼らは泣いたという。
断られたからではない。土人と呼ばれたことがショックだった。
怒りではない。あんなに仲良くしていたのに、という悲しみの方が大きかった。

日頃から、日本人は、自分たちのことを、仲間だと言ってくれていたのに、同じ人間だ、俺たちは対等だと言ってくれていたのに。
それが「土人」?、信じていたのに。それはみせかけだったのか?

集会所で待っている村人たちに報告した。
みんな「日本人に裏切られた」という思いで一杯だった。悲しくて、悔しくて、みんな泣いてしまった。



何日がが経ち、いよいよ日本軍が用意した船で、パラオ本島に向かって島を去る日がやってきた。

港には、日本兵はひとりも、見送りに来ていない。島民たちは、悄然として船に乗り込む。島を去ることも悲しかったけれど、それ以上に、仲間と思っていた日本人に裏切られたという思いで、ただただ悲しかった。


汽笛が鳴る。
船がゆっくりと、岸辺を離れはじめた。

次の瞬間、島から「おおおおお」という声があがった。
島に残る日本兵全員が、ジャングルの中から、浜に走り出てきたのだ。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、ちぎれるほどに手を振って彼らを見送っている。

そのとき、船上にあった島民たちには、はっきりとわかった。
日本の軍人さん達は、我々島民を戦火に巻き込んではいけないと配慮したのだと。
そのために、心を鬼にして、あえて「土人」という言葉を使ったのだと。


船の上にいる島民の全員の目から、涙があふれた。
そして、岸辺に見える日本兵に向かって、島の人たちは、自分でもわからない声をあげながら、涙でかすむ目を必死にあけて、ちぎれるほど手を振った。

船の上から、陽に焼けた日本の兵隊さんがひとりひとり見えた。
誰もが笑っている。歌声が聞こえる。

そこには中川隊長の姿もあった。
他のみんなと一緒に笑いながら、手を振ってくれていたという。
素敵な笑顔だった。
当時の人は、その笑顔が、ずっとまぶたに焼き付いていたという。



戦闘終結後、島に戻った島民は米軍が放置した日本兵の亡骸を一つ一つ集めて埋葬してくれた。1994年に独立を果たした「パラオ共和国」は世界有数の親日国である。