■「どーせ無理」は恐ろしい言葉
植松努さんのスピーチ、『「どーせ無理」をなくしたい』(http://logmi.jp/25655)は広くシェアされているので、ご存知の方も多いと思う。植松さんは北海道で中小企業の経営に携わりながら宇宙開発という大きな夢を追いかけている。アップルの創業者、スティーブ・ジョブスがスタンフォード大学の卒業式で行った伝説のスピーチと植松さんのスピーチは重なるところが多い。人から裏切られ、否定される、どん底を見ても夢を決してあきらめない、人との出会いに感謝、常に前向き等々、詳しくはユーチューブを見て頂きたいが、彼の辛い体験は小学校入学のときにはじまる。
(引用開始)
僕は小学校に上がってすぐに担任の先生にものすごく嫌われたんです。僕が信じていたことやばあちゃんが教えてくれた事は全部否定されました。僕の夢は、お前なんかができるわけがないとさんざん言われました。じいちゃんが撫でてくれた頭を先生に散々殴られました。とっても辛かったです。
でも、それを助けてくれる大人はいなかったです。僕はその先生が言った言葉を忘れていませんでした。その先生は「どうせ無理」という言葉をよく使っていたんです。このどうせ無理という言葉が恐ろしい言葉なんだなと思いました。
これは人間の自信と可能性を奪ってしまう最悪の言葉です。でも、とっても簡単な言葉なんです。これを唱えるだけで何もせずに済んでしまうから、とってもらくちんになれる恐ろしい言葉でもあるんです。こんな言葉で未来を諦めさせられてしまった人たちは自信を失ってしまうんです。でも人間は生きていくためにはどうしても自信が必要なんです。(引用終り)。
「どーせ無理」という言葉を使う人は、自分がやったことが無く、自信が無い人が多い。自信が無いと人を見下したり、他の人が頑張ったら困るから努力を邪魔するようになってしまう。そして周りの人を勉強してもムダだ、努力してもムダだ、という気にさせる。
植松さんはどーせ無理、と思った時、こうしてみたら、と発想を変えようという。つまりできない理由を探すのではなく、できる理由を考える、そう考えれば、やったことのないことをやりたがる人、あきらめない人、工夫する人たちが増える。このように「ど-せ無理」に負けない人が増えるならば、未来は明るいと言う。
■頑張れば報われる日本の社会
日本はあきらめずに頑張れば夢を実現できる素晴らしい国だ。植松さん自身も夢に向かって頑張りました、と言っている。
頑張れば、偏差値の高い大学に合格する可能性は、勉強しないで怠けている受験生よりは高い。司法試験でも大学受験でも受験資格はほぼ平等、公平で、合否は本人の努力次第。スポーツや音楽、美術などの芸術の分野では才能も必要であろうが、努力によってはそこそこまで行けるし、またいくら才能があっても努力なしでは一流にはなれない。米作りでも3回草取りをするより、4回草取りをする方が収量はわずかながら増える。つまり頑張らなければ、目的を達成することはできず、逆に頑張れば、その努力は報われる(公算が高い)。
それに、日本では頑張った人を敬う風潮がある。お国でも文化勲章を始め、文化功労者、紫綬褒章、藍綬褒章など、学術分野ばかりでなく、映画や漫画で頑張った人や社会に尽くした人々表彰している。我々は、何かというと「がんばってね」と声を掛け合う。頑張れば勲章は貰えなくてもきっといいことがあるから、という考えが前提にあるからだ。家庭環境がどうであれ、一流大学を出ればそれなりに評価してもらえる。会社で頑張って能力を発揮すれば、たとえ大学を出ていなくても役員になる人はなる。
植松さんは本人の資質もさることながら、共感してくれる人、助けてくれる人がいる日本の社会にいたからこそ夢を追い続けることができた。当たり前、と思いがちだが、生まれや肌の色ではなく、能力で人を判断してくれる社会はそうあるものではない。
世界を見ると社会システムが「どーせ無理」で覆われている国は少なくない。例えば「この世の楽園」と言われた国に、何か運命のいたずらで自分が住むことになったとする。まず、自分は日本人の血をひいているから「出身成分が悪い」という理由でまともな教育は受けられない。そんな、と呟けば片道切符の収容所送りだ。能力、努力以前の、自分にはどうにもできない理由で「どーせ無理」の烙印が押される。このような「階級社会」に住む人に、頑張ってね、の呼び掛けはブラックジョークでしかない。
(続く、あと一回だけお付き合い下さい)
写真はチェンライの花博から