今になって想う「学恩」
■ 哀れさを誘う姉弟
時折、チェンライのレストランへ食事に出かける。食事をしていると、子供の物売りがやってくる。店内の酔客にバラの花、南京豆などを買ってくれとせがむ。7,8歳の悲しそうな顔をした女の子だ。それほどしつこくはなく、要らない、という素振りをすると、ほかの席に移っていく。彼女がいなくなると、その弟だろう、顔のよく似た男の子が南京豆を売りに来る。一袋20Bくらいのものだから、買ってあげたこともある。この姉弟コンビとはあちこちのレストランで遭遇した。親と車で巡回しているのだろう。
初めて彼らと会ったのは4,5年前だが、先日、友人と行ったエビ料理店でこの二人に出会った。もう大きくなっていて昔ほど哀れさを感じない。向こうも、ああ、この日本人は最近買ってくれない、とあっさり引き下がる。
よその子は大きくなるのが早いね、昔は可哀そうでつい買っちゃったよね、などと兄と話す。
■学恩一方ならぬ・・・
自分もあの子と同じように頼りなさそうで助けてやんなきゃ、と思われていた時があったのだろう。これまでの人生、人のご厚意におすがりして何とかその日をやり過ごす、というパターンであった。これまで、いわゆる「学恩を被った」先生は数多いが、その中で中央大学経済学部の斎藤優先生は忘れ難い。
50 に手が届こうかというごく普通のサラリーマンが、ある日突然、会社の気まぐれ人事によりシンクタンクの出向研究員にされた。専務理事から「あなたはアジア政治経済の専門ということになっています」と申し渡されて吃驚仰天。アジアというとタイとかインドネシアという国があったよな、自分のアジアの知識はその程度。
研究所ではアジアのグローバル化に関する研究委員会が組織されていて、その事務局を任された。何をしていいかわからない。委員の斎藤先生を中央大学多摩キャンパスに訪ねた。先生はおろおろしている自分を励まし、自著をプレゼントしてくれた。よほど哀れに見えたのではないか。その後、研究室に何度かお邪魔をし、教えを乞うた。お招きがあったとはいえ、図々しくもご自宅に伺って奥様の手料理をごちそうになったこともある。
ある時、先生が君を経済学部の客員研究員にしてあげよう、と言う。二人で図書館に行き、先生が、共同研究をするのでこの人を客員研究員にします、といった意味のことを便箋にさらさらと書き、ハンコを押して係員に渡した。これで自分は中央大学経済学部の客員研究員になった。客員研究員になって何が良かったかというと、図書館から特別の入館カードが貰えたことだ。
中央大学多摩キャンパスには240万冊を超える蔵書がある。閉架式であるから、必要な本はカードに書き、司書に頼んで持ってきてもらわなければならない。客員研究員はその閉架式図書館の裏側に出入り自由なのだ。どの本も自由に手にできる。本棚と本棚の間にはいくつか研究者用の閲覧席があった。有料ではあるがコピー機も用意されていた。
■それこそ万巻の書が
どのような本があるのか、エレベータを登り降りして、蔵書を見て回った。江戸時代の和綴じ本もある。主だった月刊誌、週刊誌は創刊号から全部揃っている。戦前の文芸春秋をめくってみたら、識者座談会で茅誠司という東大だか東北大の助教授が「いつか東京からモスクワまで10時間くらいで行けるようになるのです」と発言して一同から大笑いされていた。
古い雑誌や週刊誌を読んでいたらどんなに時間があっても足りない。ダイヤモンド、エコノミスト、東洋経済といった経済週刊誌の目次を30-40年分、サラサラと目を通してみた。その結果、分かったことは、常に日本経済は「曲がり角」に来ており、円高であっても円安であってもこの先、日本経済は奈落の底に落ちる、ということだった。またオートメーション、電算機、ネットなど新技術が出現するたびに、「もう中高年はいらない」。
そういえば安倍政権発足当時、2013年末の日経平均株価は12000円を越えない、とか中国の元が国際基軸通貨になると広言していた人がいた。昔からエコノミストは閻魔様に舌を抜かれても仕方ない人が多い。
パーティションで区切られた研究者用閲覧席で、本を読んでいた頃を懐かしく思い出す。斎藤先生の学恩に報いることはできなかったが、先生もそれは期待しておられなかっただろう。しかし何年かのち、タシケントのカレッジで教壇に立つことができたのは、あの時の先生のご厚意あってこそ、と今になって思う。
斎藤先生、有難うございました。
レモンイエローの花はガーサローン、今が盛りです。