チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

ソード・タイのクンサー博物館

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ソード・タイのクンサー博物館



■ソード・タイ再び

12月にミャンマーとタイの国境に近い街、ソード・タイを再訪した。鄙びた、何か懐かしさを感じさせる街だが、1980年代初めまで、かの有名な麻薬王クンサーとその一党の本拠地でもあった。



タイ、ミャンマーラオスの3カ国がメコン河で接する山岳地帯はゴールデントライアングル(黄金三角地帯)と呼ばれ、麻薬、覚醒剤の密造地帯であった。ここに君臨したのがクンサーである。



クンサーは1933年にミャンマー東部のシャン州で生まれ、父親は果敢族 (コーカン族)、母親はシャン族。果敢族とは17世紀半ばに中国で明朝が 滅亡して満州族清朝が誕生した後に、「異民族支配」を嫌って逃げて来た漢人のことで、クンサーはその七代目にあたり、中国名は張奇夫。
一方、シャン族とは、ミャンマー東部とタイ北部、中国の雲南省に跨って住んでいる民族で、タイ人のグループだが、タイ語ではシャン族をタイ・ヤイ(大タイ族)と言い、タイ人はタイ・ノイ(小タイ族)と言う。



クンサーは米国の支援を得て、シャン族、モン族の独立を大義名分とするモン・タイ軍(MTA)を結成、国民党軍、共産ゲリラと戦う一方、麻薬ビジネスを大々的に行う。麻薬ビジネスは国民党残党、共産ゲリラ、ビルマ軍、その他ミャンマー軍閥も活発に行っていた。軍資金を調達するのに手っ取り早く儲かるのは、価格が高く、かさばらず、世界中に売りさばける麻薬である。これは阿片栽培の本拠がアフガニスタンに移っても変わらない。



クンサーは1980年代初めまで、タイ政府の要請に応えて、北タイの共産ゲリラ討伐に参加していた。初めは米国の手先、次は反共のタイ政府の手兵となって共産勢力と戦ったわけだ。しかし、「狡兎死して走狗煮らる」の例え通り、80年代半ばにタイ共産党が壊滅した後は、麻薬犯罪集団としてタイ政府軍、ビルマ政府軍から攻撃を受ける。米国はクンサーの首に200万ドルの懸賞金をかけた。



■シャン邦共和国

ビルマ政府軍が攻勢に乗り出すと、クンサーは93年末に突如としてシャン邦共和国の独立を宣言し、自ら大統領に就任した。この共和国は東部ミャンマー、シャン州を中心に、今のラオス、日本の本州くらいの広さがあった。シャン邦共和国がこのまま、国として存続していたら、クンサーは麻薬王ではなく、少数民族独立のリーダー、建国の父と称えられていたかもしれない。しかし、独立後に頼みのシャン族から反乱がおこり、クンサーは96年1月に国をヘリコプターでヤンゴンに逃亡し、ビルマ政府に投降する。大統領職にあったのはわずか2年余りであった。



その後のクンサーは、これまで「麻薬王」として蓄えた資産をもとに、宝石や木材などのビジネスを行う「実業家」に転身した。アメリカ政府からの再三の身柄引き渡し要求を、ミャンマー政府は拒否し続け、かつてアウンサンウーチーが軟禁されていたこともある宿舎に、2007年に死去するまでVIP待遇で保護されていたという。



■博物館

ソード・タイを再訪した目的は、あの霧の中でひっそりと始まり、霧の晴れる頃にはすっかり姿を消してしまう朝市で、納豆と塩豚を買うこと、それと前回見落としたクンサー博物館を訪れることであった。



さて、クンサー博物館は国道を右に市場の方向に歩き、カーカム寺のある山を左に迂回しながら登っていく。博物館まで50mという道標があったがトンでもない。かなり急勾配の山道をはあはあ言いながら登る。舗装されてないから雨季ならば難儀するだろう。10分ほど歩くと「クンサー・オールド・キャンプ」と書かれた兵舎風の建物が見えた。ここがクンサーの住居跡らしい。係員が建物の鍵をあけてくれた。入場料は無料である。

共和国の版図、クンサーやその幕僚の写真、あるいはミャンマー政府との講和会議の絵などが展示されている。若い兵士に話しかけるクンサーという写真の兵士はどう見ても10歳位の子供だ。



クンサーの寝室がそのまま残されていた。粗末なベッドと鏡台、そして洗面台だけの狭い部屋、一泊200バーツのGHといったところ。質素な暮らしぶりが偲ばれる。共和国成立時の政府関係者らの写真があったがクンサー逃亡後どうなったのか、未だ独立闘争を続けている人もいるに違いない。。



クンサーは麻薬犯罪者で反政府活動のテロリスト、と言えるし、シャン族独立の英雄、あるいは民主主義のために立ち上がった反共の闘士とも言える。晋書に「棺を蓋いて事定まる(死後,初めてその人の真価が決定する)」とあるが、シャン独立紛争がまだおさまっていない現在、クンサーの評価はまだ定まっていないと言えるだろう。



写真は博物館にて、一番下はクンサーと少年兵