友人からのメール
■自立した人
8月15日にアップした「高齢者の義務」に何人かの友人が感想を寄せてくれた。嬉しいものである。
その中で、自分の舌足らずなレポートを補足する素晴らしいコメントをくれた畏友がいるので、本人の了解を得て、ほぼ全文を紹介したい。
戦後社会の混乱はその価値観の喪失による。しかしその価値観の継承を怠ったのは自分たち「団塊の世代」ではないかと、彼は反省する。友人は会社を退職後、自宅で塾を開いている。彼は、若い世代が連綿と続いた価値観を知ることにより、自らを律する大人になっていけると希望を持っている。
戦後社会をゆがめたのは日教組の教育のせいだ、戦前の世代がちゃんと教えてくれなかったから、などと、他人に責任を押し付ける風潮が保守の中にさえある。責任逃れをする人に、人を非難する資格はない。団塊の世代の責任を自覚しつつ、何ができるだろうと考え、行動する。彼のような人を自立した大人と呼ぶのではないか。
■価値観の継承と教育問題
お久しぶりです。「チェンライの市場から」は毎回拝読していますので、お元気な様子を知ると共に、いつも会っているような気がして、気がつけば随分なご無沙汰になっています。(中略)
老人が自分の体験を後の世代に伝えていないという指摘は、その通りだと思います。歴史もさることながら、価値観の継承について、老人達、とりわけ団塊の世代に代表される昭和20年前後生まれの世代が次世代に自分たちが親の世代から示された価値観を伝えていなかったことが、今日の社会を歪めている、また、教育現場で様々な問題を起こしている直接の原因あるいは遠因になっていると思います。
良きにつけ悪しきにつけ、我々の親の世代は、社会で生きるために人は何をしてはいけないか、何をしなければいけないかについて共通の認識を持っていました。人に迷惑をかけてはいけない、弱い者いじめをしてはいけない、年上のものには敬意を表する、社会の規範を逸脱する行為は互いに注意し合う、などなど。
そうした共通した道徳律を持つことが出来た背景には、家を中心とした家族観、天皇を頂点とする国家観を基盤とする価値観に基づく学校教育、地域教育、社会教育の徹底があったと思います。しかし、敗戦を境にしてその価値観が否定された結果、親の世代の価値観、道徳観としての存在は認めるものの、自らの当然の価値観としては定着せず、かと言って自らの新たな価値観を産み出すことも出来ないまま高度成長を支える活動に全エネルギーを費やしてしまったのだと感じます。
従って当然次世代に伝えるべき、社会を貫く価値観を持たない状態で自分たちの子供を育ててきたのです。我々の世代はまだ共通の価値観を持った親の世代がいて、親の世代に共通する価値観に触れることが出来たのに引き替え、自分たちの子供の世代は社会共通の価値観に触れる機会が全くないままに成長し、法律以外に自分の行動を律する基準を持たず、「してはいけないことなら、法律にそう書いておいてくださいよ」とうそぶき、そして彼らが親となると自らはモンスターペアレンツと化し、子どもたちはいじめの加害者・被害者のいずれかに陥ってしまう。
■責任は団塊世代に
こうして、おかしくなってしまった日本社会を見るにつけ、こうなってしまった原因はまさに団塊の世代が、全否定された戦前の価値観の中にも存在していたはずの、良き日本社会を支えていた価値観を受け継がず、次世代に継承も出来なかったことにあると痛感します。
我が家に集う中・高生の若者達と、時に様々な社会問題、政治問題、国際問題について語ることがありますが、我々には受け入れられないような若者達の行動は、若い世代の価値観が我々と異なっているためではなく、何をしてはいけないか、何をしなければいけないかを教えられていないためであって、教えれば実に素直に理解し、判断します。これは何も我が家に特別な若者が集まっているのではなく、広く全体に言えることだと思っています。
誰でも行動するときには自分の行動基準に従うのですが、今の日本社会では、はたして自分の基準が正しいのか、自信がもてないのです。だから人がどうするかが判断基準になってしまうし、人と異なることをすることに恐怖を覚えるようになるのです。社会全体を貫く価値観として、何を取り上げ広めてゆくべきか、こうしたことを学校現場の先生達とも話し合いたいと思っていますが、なかなか機会を作れないでいます。(後略)
教え子の結婚式があるので、明日、上京します、とメールは結ばれていた。彼の人柄、師弟関係の麗しさが偲ばれる。
写真はチェンライの市場です。昔は朝行くと、まだ湯気のでている豚肉が売られていたそうです。ブアはスーパーの肉は古くて臭いからと言って、市場で買います。