チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

ラオス、アカ族の村を訪ねる 23

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ラオス、アカ族の村を訪ねる(23)

■ トイレ休憩
ポンサリ行きのバスは、16時頃、ブンタイという村の市場に停まった、市場の中にあるトイレは有料で、1000を2000に書き換えた使用料が書いてある。日本円で20円ほどであるが、誰も利用しない。道路を少し歩いて草むらで用をたす。
トイレがあるところで停車してくれるのは良心的だ。以前、ルアンナムターからフエサイ行きのミニバスで前後左右何もない道の真ん中でトイレ休憩があり、白人女性がティッシュを手に草むらに駆けだしていく姿を見たことがある。ラオスの観光案内には、女性は腰巻スカート(布)を持っているといい、と書いてある。現地女性はこの布でうまく隠しながら用をたす。

市場で少数山岳民族の女性が地べたに野菜を並べて売っていた。アランが写真撮影の許可を求めると、1万キップ出せという。アカ族ではないのであきらめたようだが、その様子を少し離れた場所から撮った。この場合、見つかると大変なことになる。

■看板を見て思い出したこと
市場の一角に郵便局があった。ラオス語と共に「BUREAU DE POSTE」 とフランス語表示があったのでわかったのだ。。インドシナ3国はフランスの植民地だった。フランス女性が「インドシナとフランスは分かちがたく結びついている」と臆面もなく書いていることを紹介したことがある。(http://blogs.yahoo.co.jp/uzbekistan24/53388295.html
こんな田舎にも宗主国の影響は残っている。

大東亜戦争後、日本軍がインドシナから出ていくと、ド・ゴール大統領は「インドシナを再び植民地にして、フランスの栄光と誇りを取り戻す」と宣言し、軍隊を送り込んできた。米国はド・ゴールを支持しただけではない。ディエンビエンフーで大敗し、フランス軍インドシナから撤退したあとベトナム戦争にのめりこむ。フランスの、米国の兵士はもちろん、インドシナで300万を越える人々の生命が失われた。
こういった恥知らずな国々が安全保障理事会常任理事国として大きな顔をしている、それが国連(ユナイテッド・ネーションズ、連合国)である。

俳優になる前のアラン・ドロンが17歳から20歳まで外人部隊におり、インドシナ戦線に従軍したことは良く知られている。「太陽がいっぱい」の貧しくて反社会的な青年は、現実の彼そのものだった。

■ポンサリ到着
ラオスの日没は早い。片道1車線の泥道をバスは行く。街灯などない真っ暗な道だ。時折、10数軒ほどの小集落を過ぎる。ラオスの田舎でも電気が来ている。家の中の灯りは10燭光ほどで、明るいというよりほの暗いというほうが適切だ。家の土間にビニールシートを敷き、その上で家族が食事をしたり、テレビを見たりしている。ほのぼのとした光景である。

やがてバスは殆ど暗闇のポンサリのバス停に18時に到着した。9時にウドンムサイを出発したから、3回の休憩を入れて180キロを9時間で走破したことになる。

バス停の周辺というと普通はお土産物屋とか食堂があるものだが、何もない。独りでこんなターミナルに降り立ったらかなり心細いと思うが、この街出身のリー君がガイドだ。彼の指示に従って街中心へ行くソンテウに乗る。中国人もベルギーと英国の若者も乗った。フランス人のバックパッカーがいたが、彼は街までそれほど遠くないからと言って、真っ暗な道を登り始めた。まあ、若いうちはそれでいい。

ソンテウは5分ほど走って、ビパポン・ホテル、中国名、仙金賓館の前に停まった。
おお、ここだ、2年前に泊ったとアランが嬉しそうである。温水シャワー、トイレ付で1泊800円、値上がりしたなあと渋い顔たが、これからまたGH探しをするわけにもいかない。

■ポンサリの夜
7時過ぎに街に食事に出かけた。この日、アランは昼飯抜き、トイレ休憩で停まった市場でバナナを食べただけだ。
ポンサリは曲がりなりにもポンサリ県の県都である。しかしそれほど遅い時間ではないのに、まるで真夜中のように町は静まり返っている。街を貫く国道を通る車は一台もない。標高1400mと言うだけあって肌寒い。山の街というせいか道にはかなりのこう配があり、足元が暗いので、懐中電灯は必需品だ。

リー君の案内で食堂に入る。暗くて、食堂と言われなければ通り過ぎてしまいそうな地味な店だ。先客が3名いた。ウドンムサイからポンサリまで9時間バスを運転してきた運転手とその助手2名だ。明日の朝、またこの3人でウドンムサイにとって返すのだろう。

ビヤラオでポンサリ到着を祝っていると、先ほど別れたベルギー、英国カップル、ドリーとトニーが入ってきた。この時間、この街で営業している食堂はここだけらしい。
旅は道連れ、グラス片手に自己紹介、明日からの予定などを話し合う。(まだ続く)

写真は旅行中のスナップ。
上から二枚は車窓から撮影、その下二枚は市場でのスナップ。
その下の看板は郵便局とポンサリ・ゲスト・ホテル。