タイ人の精霊信仰(1)
■ナン・ナークとピー
ごく普通の高床式の家屋、家の中で妻のナークが夕餉の支度にとりかかっている。夫マークはそれを横目に見ながら、階下で玄関の壊れた階段の修理をしている。どこにでもある平凡な家庭の一場面だ。妻ナークは唐辛子を搗いて、ナムプリック(タイの万能たれ、ご飯や野菜をつけて食べる)を作っていた。すり鉢にライムを絞ろうとした瞬間、ライムが滑って、床板の隙間から地面に落ちてしまった。
夫マークがそれを見ていると、床板の隙間から細長い手がひょろひょろと伸びてきて、地面に転がるライムをひょいと拾い上げていった。
この瞬間、マークはようやく悟る。「ナークはもうこの世のものではない、ナークは村人が言うとおり、ピー(悪霊)だった」。
これは「ナン・ナーク」あるいは「メー・ナーク・プラカノーン」の物語のハイライトだ。物語によって床下に落ちるものが杵であったり、ナイフであったりの違いはあるが、その場面で夫は妻が死んでいると気づくのである。ひょろひょろと長く伸びる手はナン・ナークの特徴であり、タイ人ならば誰でもこの場面を知っている。
タイは仏教国と言われている。確かに人口の95%が仏教徒であるし、憲法でも国王は仏教徒でなければならないと定めている。しかし、仏教渡来以前にはバラモン教が、それ以前には民族固有の精霊信仰があって、仏教、バラモン、精霊信仰の3つが現代のタイに混在していると言っていい。バラモン教は国王イコール神という教えであるから為政者には大層都合がいい。タイで行われる仏教儀式の多くはバラモンの影響を受けている。タイのお寺を訪ねる人は例外なく、国王、国王一家の写真が本堂に飾られていることに気づくであろう。日蓮上人の説いた「王仏冥合」はタイで実践されているというべきか。
話が横にそれたが、伝統的精霊信仰、ピーは、仏教と密接不可分に結びついてタイ民衆の精神生活に深く入り込んでいる。
■ピーの種類
善なるピーと悪しきピーが存在し、供物や踊りを奉納することで悪しきピーの活動を抑え、善なるピーの助力を願う。祖霊、土地神、自然物のピー、悪霊の4つに分けて考えられる。
~栂遒離圈
祖先の霊は一定期間この世の周辺に留まり子孫の安寧と福祉を守っている。仏教化の進んだ中部タイではタンブン仏教などのやり方で行われる。例えば僧の手からのびたサーイ・シン(聖糸)の一端を祖先の骨壷にまきつけることによってブン(善徳)を祖霊に移送している。この力によって祖霊は幸福な再生をすることができると考えられている。北部タイでは仏教的傾向は弱く祖霊をまつる祠に鶏や豚を供えて霊をなぐさめる。
土地神のピー
土地神としてのピーは、自然物のピーが特定の場所の主とされたものであるらしい。
タイでは各戸にサーン・プラプームと呼ばれる小さな祠柱があり、屋敷神を祀っている。また殆どの地域で年祭は廃れているが各村落ごとに土地の守護神の祠がある。
自然物のピー
森、川、湖、自然界の殆どあらゆる物の背後に、ピーが存在していると考えられている。これらの精霊が特定の場所や物の主になるとチャオ(神)と呼ばれる。自然物のピーは中立的なピーで人間の守護をする。供養を行い慎重に取り扱えば危害はない。
ぐ霊のピー
人間に対し攻撃的に危害を加えてくるピーもいる。事故、疫病、産褥などによって異常死した霊は祖霊にならず、再生もできず、いつまでもこの世にとどまり危害を及ぼすと考えられている。
■映画「ナン・ナーク」
悪霊のピーの中でも、難産で産褥死を遂げた女性のピー、ピー・プライはタイ人が最も恐れる悪霊で、タイのホラー漫画やホラーTVドラマでよく見かける。ピー・プライは凶暴でだれかれとなく襲いかかる。
首が空中を浮遊するのであるが、首の下にまだ臓物がぶら下がっているというおどろおどろしい姿で描かれる。
冒頭のナン・ナークはタイでもっとも有名なピー・プライである。19世紀末、バンコク郊外プラカノーン村という片田舎でおきた実話がもとという。この話はもう20回上映画化、テレビドラマ化されている。タイ版ホラー映画「鬼嫁」という題で日本で上映されたこともあるらしい。
タイ映画のヒットの基準は興行収入1億Bであるが、今年3月公開されたリメイク版ナン・ナーク、『ピー・マーク…プラカノン』は興行収入7億B超、タイタニックを越える大ヒットとなった。文字通り「お化け映画」となったわけだ。単なるホラーではなく、ホラー・コメディとしたのがミソらしい。
次回はナン・ナークのあらすじを中心に。本日はこれまで。
写真は映画、ナン・ナークのポスターと屋敷神を祭ったサンプラプームです。
団地の中で撮りました。