ラオス、アカ族の村を訪ねる(11)
■ジョンジェン村出発
ジョンジェン村の滞在は1時間ほど。村長の家で飲んだファンタが4缶で200円、3人の食事代が500円だった。もしかすると人生最後の食事になるかもしれないという予感があったから、代金を記憶していたのだろう。村に着くまで2度転倒している。ずっと肩に力が入っていたせいで左手の握力が落ちて、モノを握っても心もとない。Tシャツもジーパンも濡れていて寒い。体力も気力も萎えているが、一度帰還と決まったら、あとに引くことはできない。両腕をぐるぐる回し、屈伸運動をしてバイクにまたがった。
心配そうに見送る村長夫婦を後に、村を出たのは15時25分、空が明るくなってきた、とアランは言ったが、気分と同じく重苦しい鉛色だ。道路状況が往路よりよくなっていることは期待できない。
アランとリー君が乗るバイクを先行させ、自分は遅れて付いていく。平たんなところでもギアはサード、傾斜がきつくなればローギアで人が歩くほどの速さで走行する。それでも滑る時は地面に足を付け、エンジンを吹かして、バイクが僅かに動き始めた瞬間に腰を落としてタイヤにグリップ力を与えて前進させる。
しかし、サンダルでは地面を蹴ることができないし、タイヤには泥がぐるりと潤滑油のようにくっついていて、地面を空回りする。それこそだましだまし、泥道を走る。
■3度目の転倒
村を出てから30分たったころ、登り道にかかった。道はコンクリートミキサーの中身を撒き散らしたようになっている。山側のわだち跡のないところを選んで走った。これは後で考えると判断の誤りであった。トラックが通ったところは表面は泥であってもその下は堅いことが多い。しかし車が通らなかった部分は、見た目は良くてもバイクの走行に耐える状況であるとは限らない。
枯れ草の上をいくらか加速しながら登ろうとしたその瞬間、後輪が鋭くスリップした。あわててブレーキをかけたものだからひとたまりもなくバイクは横転した。前2回の転倒の時に比べ、スリップから転ぶまでの時間が短かった。絶叫に近い声が出た。バイクが下半身から上半身に覆いかぶさっている。身動きができない。20mほど先を走っていたアランとリー君が何か叫びながら駆け下りてきた。
バイクを起こしながら、骨は大丈夫か、血は出ていないか、と尋ねる。体の自由を奪っていたたバイクを取り除いてもらい、ゆっくり立ち上がってみたがどこも痛くない。幸い怪我はしていないようだ。
エンストしたバイクを何度もキックしてアランがエンジンをかけた。何とかエンジンがかかった。アランが「あっ、レバーがない」と言う。転倒した時に前輪ブレーキのレバーが折れてしまったのだ。
アランの指示でリー君が自分のバイクに乗り、自分はアランのバイクの後部座席に乗ることになった。
■こけつまろびつ
タンデム走行ではバイクの重心を安定させるため、運転者と同乗者は密着することが望ましい。道路状況が悪い時はなおさらだ。アランのリュックを背負ってアランの背中にくっつく。悪路にかかると自分は降りる。中国製バイクは馬力に欠ける。アランは長い足で泥道を蹴りながら登っていく。
アランのリュックには一眼レフカメラやらレンズ、貴重品が入っていて10キロくらいある。チェンライ空港で彼と会った時、彼がしょっていたものだ。そのリュックを背負ってバイクを追いかける。アランと再会した時、こういった仕儀になるとは思いもよらなかった。
サンダルの底に泥が付く、泥をこそぎ落とすと粘土質の泥に足をとられる。泥につかったまま片膝をつくことも。
アランは悪路が切れたところでバイクを停めて待っている。こっちは汗びっしょり、息が切れる。平たんな道の後はまた坂、坂というのは登りがあれば下りがある。その度にバイクを降りて敗残兵のようによろよろと歩く。もう走れない。
インパール作戦に参加した兵隊さんは糧秣として米6升に若干の調味料,小銃弾240発,手榴弾3発,シャベルあるいは十字鋤,毛布,天幕を携行,小銃,帯剣をあわせて1人当たり40キロの装備となったという。
兵隊さんの苦労を思えば、と言っても60半ばの兵士はいなかっただろう。難所の橋もなんとか渡り切った。子供たちが歌を歌ってくれたパヤンルアン村では、あっ、さっき飴をくれた外人だ、と子供たちが歓声をあげていたが、先を急ぐのでバイクから手を振っただけ。
夕闇が迫るころ、GHに到着した。泥だらけのGパンを脱いで、水垢離に近い冷水を頭から浴びる。冷たく感じるのも生きていればこそ。それにしても大変な1日だった。(続く)
写真は難所の橋ですが本当は2つあって、写真は大きくて安全な橋の方です。一番下はどこまでも続く泥濘。