チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

アカ族の村を訪ねて 2

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アカ族の村を訪ねて(2)

■アダムの家
アダムの家は6人家族。母親(67歳)、奥さんムソ、長女ピヤ(11歳)、長男ソンバ(9歳)次女スルタイ(6歳)と暮らしている。アダムは37歳、郡役所にも勤めたことがあり、村人の信望は厚い。
家は高床式のアカ族様式だが屋根はスレート、床も壁も板、10畳ほどの居間と鍵のかかる寝室が3部屋ある。部屋の外にはサラと呼ばれる4-5畳ほどのテラスがあり、通常はここで食事を取る。炊事場とトイレは別棟である。トイレは水洗、ただし紙はなくタライに入っている小さなおわんに水を汲んで用を足す。炊事場は薪をくべるコンロが3つほどある。テレビ、冷蔵庫はあるが洗濯機はない。

アダムは元々ミャンマーで暮らしていたが十数年前、一族をあげてパナセリに移り住んできた。村には彼の親族が多い。寄宿生活をしながらチェンライの高校で学ぶ姪、ミンツー(16歳)が帰っていたので、土日は帰省するのかと思ったが、わざわざアダムが英語を解する彼女を私の滞在期間、村に呼び返してくれたのだと知った。彼女がいなかったならば、自分のタイ語、アカ語では意思疎通もままならず、ほとんど某テレビの「ウルルン滞在記」に終わるところだった。また、本来であれば奥さんもバンコクへ装飾品販売の出稼ぎに行くところを私の出発まで延ばしてくれたことをあとで知った。

アカ族の村に滞在した人のレポートをインターネットなどで読んでみると、多くの人がアカ族の心遣いに感動している。ある人は眠いな、と思ったら枕が出てきたり、喉が渇いたな、と思うと目の前にお茶が出てくるという経験を書いている。
私も水浴びをしようとスニーカーを引っ掛けたところ、ミンツーが「これを使って」と自分の履いていたビーチサンダルを脱いで渡してくれた。彼女ははだしだ。小さいタオルしか持ってこなかった私にアダムがバスタオルをさっと差し出す。
朝、歯磨きをして川水の中水道で口を漱ごうとしたとき、離れたところで洗濯をしていたはにかみやの長女ピヤが柄杓に入った水道水をそっと渡してくれたこととか、初めはアカ族のうるち米が美味しいので3杯ほどおかわりをしていたが、あまりにも食べすぎかと茶碗1杯だけにしたら、どこか具合が悪いのか、と心配してくれたことなど・・・・・。日本人以上に相手の心を察し、細やかな心遣いをする人々だった。

■村の朝
村の夜明けは6時45分くらいだ。鶏は明け方に鳴くものだと思っていたが、アカ族の鶏は午前2時ごろから思い出したように鳴き始める。床や壁は板であるが、ところどころ隙間が空いているし、テキは放し飼いで夜は床下にいるので、耳元でコケコッコーをやられているのと同じだ。
幾夜目覚めぬ須磨の関守は千鳥の声だったが、こっちは深夜から鶏の鬨の声に驚くばかり。一軒の家で10-15匹の鶏を飼っているわけで、村中の雄鶏が一斉にエールを交換する明け方ともなると、どんなネボスケでも目を覚ます。村の人は6時前、まだ暗いうちからおきて朝食の準備を始める。薪をくべる煙の匂いが壁や屋根の隙間を通して漂ってくる。
明るくなり始めた頃、散歩に出る。どこの家からも薄紫の煙が立ち昇り、小高い丘の上に立つと村全体が靄のような紫煙に包まれているのが眺められる。
「山あいに朝餉の煙たなびきて平和の村は今明けにけり」

7時過ぎになると雄鶏に代わって、学校のスピーカーが村中に響き渡る大音量でラジオの音楽やニュースを流し始める。7時半には暗いうちから山道を歩いてきたのだろう、白い息を吐きながら子供達が学校に集まり始める。
アダムの家では家の掃除、洗濯、朝食と家族総出でてきぱきと仕事を片付けていく。よく東南アジアの男は働かないなどと言うがアカ族は別だ。アダムは奥さんが遠くに賃仕事に出かければ家族のご飯を用意するし、家の中、周りの掃除もする。
洗濯は長女ピヤの仕事らしく、学校へ行く直前までに家族の衣服を物干し竿に架けている。8時前に弁当をもって子供達は学校へ。アダムの家の前を通る子供達を見ると、靴下に革靴という子もいれば、サンダル履きの子も、また何人かは裸足で制服も着ていない子もいる。貧富の差は歴然とある。
(続く)


写真上から「アカの家」「アダム」「パナセリの村」