チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

パソコンで聴く音楽、観るドラマ

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パソコンで聴く音楽、観るドラマ

■CDはもういらない
近頃はネットで音楽、映像をダウンロードできる。またDVDに録画されたテレビドラマ等も市販されている。タチレクあたりに行くと、おお、これは、というようなクラシック、オペラ、懐かしの名画のCD,DVDを売っていて、値段もすこぶる安い。封切られたばかりの映画もあるが、画面には立ったり座ったりする観客の頭が映っているという。映画館で撮影してきた中国製の違法コピーである。

ウィニーに頼らずとも、合法的無料ソフトを利用して音楽や映像を、あるいはDVD、CDをハードディスクに落とし、時に再生して楽しむ、ということは今や一般的なようだ。

ところで、ソニーがCDを発売したのは1982年、CDプレイヤーが16万8千円、CD一枚が3800円した。1985年にCDのレンタル業が認められ、翌年にCDのシェアが54%となり、レコードやカセットを抜いた。1990年前後には長渕剛松任谷由実光GENJI、それにBBクイーンズの「踊るポンポコリン」、小田和正の「ラブストーリーは突然に」などのミリオンセラーCDが出現し、世はCD時代となった。しかしCDの絶頂期は短く、1998年を境にCDの売り上げは落ちていく。もちろんMP3などのファイル交換ソフトが出てきたからだ。

90年代に趣味でCDを集めた人は多いだろう。クラシックのCDは安くても1枚2500円くらいしたのではないか。お小遣いで買い集めた想い出深いCDも今となっては場所塞ぎ、業者に売ろうと思ったら、一枚5円なら、と言われ、涙にくれた人がいる。

東京の家の押し入れにはかなり量のCDがある。図書館で借りてきてはパソコンでCDRにコピーしたものがほとんどだ。しかし、重量が10キロあろうと何百枚あろうと、今では重さ数gのUSBメモリー一つに全部に収まってしまう。
技術の進歩は素晴らしい・・・

■昔なら王侯貴族の世界
クラシックは半世紀近く前、高校の友人に連れられ、新宿の厚生年金ホールに行ったのが始め。演目は記憶にないが、帰国したばかりの小澤征爾がタクトを振った。こっちが高校生なのだから彼も20代後半。若かった。一番前の席で聞いたのだが、小澤さんが指揮に夢中になって鼻をフガフガ鳴らすし、指揮台で動き回って、台と靴の擦れる音がキーキー聞こえるはで、この人、これから指揮者やっていけるのかなあ、などと心配したものだ。

当時はクラシックを聴くならチケットを買い、ホールに足を運ばなくてはならなかった。今はこの原稿を書きながら小澤征爾指揮、ボストン交響楽団の演奏するマーラー交響曲第9番を聴いている。古今の名曲がいつでも聴ける。モーツァルトの時代ならハプスブルグ家の貴族でもこのような贅沢はできない。

マニアックなクラシックファンではないが日本の交響楽団の演奏も決して欧米の一流楽団に負けていないと思う。

■音楽に比べて差を感じるドラマ
映画やオペラのソフトもたくさんもらっている。でも無職の身分でありながら、映画、オペラ鑑賞に必要な2時間というまとまった時間がなかなか取れない。よって、50分完結のテレビドラマを優先して観ることになる。

今は米国の犯罪ドラマにハマっている。アメリカの犯罪ドラマでは被害者は純真無垢で善良な市民、加害者は残忍無比、冷酷な犯罪者と色分けされている。徹底的なワルを見ているとなんとなく気分が滅入ってくるのであるが、米国ドラマは筋立てが良く、登場人物の性格がよく描かれている。シリーズを見続けていくと、刑事の生い立ち、家族関係、友人関係、キャリア、悩み、トラウマが次第に浮き彫りになってきて、それがドラマに深みを与える。

殺人は偶然や感情のもつれだけで起こるわけではない。貧困、人種差別、同性愛、エイズ、宗教、知的障害など、偏見にさらされた社会的弱者が被害者となる率が高い。こういった殺人事件が起こる社会的背景が油絵のように重層的に描かれているので、ドラマはリアリティを増す。

しかし、日本の犯罪ドラマ、例えば「相棒シリーズ」にしても、日本の闇の部分、例えば差別問題を背景にした筋立ては1本もない。上役と部下、教授と助手とのあいだの感情のもつれでいとも簡単に殺人が行われる。こんな理由で殺されるんだったら自分だって会社で3回くらい殺されている。薄っぺらい作り物だから、登場人物も紙相撲の力士のように頼りない。

日本のクラシックは世界に引けを取らないのに、ドラマは米国のそれに比べ決定的な差がある。それは闇の勢力に遠慮して社会をはっきり見据えようとしない日本のテレビ業界の怯懦からくる結果ではないかと思っている。


写真は前回の「ナーンの街で」の続きワットプーミンのものです。