チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

昭和天皇のご巡幸

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昭和天皇のご巡幸

■皇統とは
以下は5月2日産経新聞の朝刊オピニオン欄に掲載された産経新聞九州総局長野口裕之記者による「先帝陛下の大御心」と題された記事の全文である。

先帝(昭和天皇)陛下は昭和24年、佐賀県行幸された。敗戦で虚脱した国民を励まされる全国御巡幸の一環で、ご希望により因通寺という寺に足を運ばれた。地元の友人から聞いたその際の逸話に、陛下が背負い続けた深い悲しみと苦しみが滲む。
住職・調 寛雅(しらべ・かんが:平成十九年一月三十日歿)氏の著書「天皇さまが泣いてござった」(教育社)に詳しいが、そのお姿は「刻苦」を正面から引き受ける修行僧のようでもある。

 寺では境内に孤児院を造り、戦災孤児40人を養っていた。
陛下は部屋ごとに足を止められ、子供たちに笑みをたたえながら腰をかがめて会釈し、声を掛けて回られた。
 ところが、最後の部屋では身じろぎもせず、厳しい尊顔になる。一点を凝視し、お尋ねになった。
 「お父さん、お母さん?」
 少女は2基の位牌を抱きしめていた。女の子は陛下のご下問に「はい」と答えた。
大きく頷かれた陛下は
「どこで?」と、たたみ掛けられた。
 「父は満ソ国境で名誉の戦死をしました。母は引き揚げ途中で病のために亡くなりました」
 「お寂しい?」と質された。
少女は語り始めた。
 「いいえ、寂しいことはありません。私は仏の子です。
仏の子は、亡くなったお父さんとも、お母さんとも、お浄土に行ったら、きっとまた会うことができるのです。お父さんに、お母さんに会いたいと思うとき、御仏様の前に座ります。
そして、そっとお父さんの、そっとお母さんの、名前を呼びます。
するとお父さんも、お母さんも私の側にやってきて抱いてくれます。だから、寂しいことはありません。私は仏の子供です」
 陛下は女の子の頭を撫で
「仏の子はお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」と仰せられた。
見れば、陛下の涙が畳を濡らしている。
女の子は、小声で「お父さん」と囁いた。陛下は深く深く頷かれた。
 
側近も同行記者も皆、肩を震わせた。
実はこれより前、陛下にお迎えの言葉を言上した知事が、嗚咽で言葉を詰まらせていた。
側で見て「不覚をとるまい」と肚を据えた住職も落涙した。
そればかりか、ソ連に洗脳されたシベリア帰りの過激な共産主義者の一団まで声をあげて泣いた。彼らは害意をもって参列していた。
 皆、陛下のご心中を察しつつ、その温かみに感極まったのだ。
自らの戦中・戦後も自然、重ね合ったに違いない。
 日本から皇統を取り去ったら、何が残るだろうか…。(引用終り)

共産主義者も号泣
この記事で割愛されている引揚者との触れ合いは以下の通り。

因通寺の参道には、遺族や引き揚げ者も大勢つめかけていた。
引き揚げ者の一行の前では、昭和天皇は、深々と頭を下げた。「長い間遠い外国でいろいろ苦労して大変だったであろう」とお言葉をかけられた。一人の引き揚げ者がにじり寄って言った。

天皇陛下さまを怨んだこともありました。しかし苦しんでいるのは私だけではなかったのでした。
天皇陛下さまも苦しんでいらっしゃることが今わかりました。今日からは決して世の中を呪いません。人を恨みません。天皇陛下さまと一緒に私も頑張ります。

この言葉に、側にいた青年がワーッと泣き伏した。「こんな筈じゃなかった。こんな筈じゃなかった。俺がまちがっておった。俺が誤っておった。」

シベリア抑留中に、徹底的に洗脳され、日本の共産革命の尖兵として、いち早く帰国を許されていた青年達の一人であった。
今回の行幸で、天皇に暴力をもってしても戦争責任を認めさせ、それを革命の起爆剤にしようと待ちかまえていたのである。
天皇は泣きじゃくる青年に、頷きながら微笑みかけられた・・・

■数千万人規模の奉迎者
陛下が全国をくまなく回り、国民を励まし、慰めたいと決意されたのは昭和20年10月のことである。敗戦国の国王が辿る運命はいずれの国でも亡命、処刑というものだ。GHQはどうせ国民に石でも投げつけられるのだろうと巡幸を許可した。ところが彼らの思惑とは裏腹に先帝陛下は各地で大歓迎を受ける。天皇のあまりの影響力の大きさに驚き、GHQは昭和23年に全国巡幸を中止させる。復活するも昭和25年から27年には再度巡幸禁止命令を出している。

ご巡幸はその後も、四国、北海道と昭和29年まで続き、8年半の間に昭和天皇は沖縄をのぞく全都道府県をまわられ、お立ち寄り箇所は1411カ所におよんだ。

昭和63年、病床にあった陛下は「もうだめか」と呟かれた。医師たちは、命の事かと思ったが、実は「沖縄訪問はもうだめか」と問われたのである。ご巡幸の最後の地、沖縄に寄せられた昭和天皇の御心は、今上陛下によって平成5年に果たされた。

写真は世界で一番大きくなる果物、ジャックフルーツです。大きいものは4、50キロになるらしい。実は幹から生じます。