チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

アカ族の葬式 8

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アカ族の葬式(8)

■埋葬の日
葬儀最終日の5日目は朝から時折雨がぱらつく生憎の天気だった。朝7時過ぎに会場に行ってみたら、昨日庭の斜面につながれていた水牛が庭に横たえられていた。屠殺はかなり早い時間に行われたようだ。牛の頭を隠すように籾が山盛りにかけられている。一辺に9個の子安貝を使って矢印が籾の上に描かれていた。矢印の先にはいくつにも枝分かれした羊歯が一本立てられていた。これも天国への道を象徴するものだろうか。子安貝は民族衣装の飾りにも用いられている。山岳民族にとっては高価なものだ。

■また水牛の解体を見る
牛を前にしてピマ始め、遺族及び関係者の集合写真を撮った。そのあと牛が解体された。まず、腹部の皮を20センチ幅で首辺りまで切り上げ、その帯状の皮で牛の口を縛った。それから腹膜を開いて臓物を取り出す。リヤカーに取りだした内臓を乗せようとするのだがズルズルと滑ってうまく乗らない。
死後数時間たっているので、胸郭にたまった血は固まってゼリーのようになっていた。男達がそれを両手で掻き出してバケツへ入れる。
山刀を振るう男達は血だらけだ。前掛けを血に染めた若者がどうだ、というように見得を切る。これが男の仕事だよ、という誇りに満ちた表情だ。

水牛は毎日1頭、生贄にされ、会葬者に振る舞われている。しかし、最終日に屠られた牛の半分はピマへの謝礼、あとの半分は村人に均等に分けられる。血もポリ袋で小分けされる。

動物の解体は狩猟民族にとって興奮する出来事であり、美味しそうとよだれが出るものかもしれない。自分もマグロの解体ショーであれば唾を飲み込みながら見るところであるが、連日、牛や豚が肉になっていく過程に付き合って、かなり気分が落ち込んできた。
特にこの日は牛の頭蓋骨も山刀でパンパンと割られ、下顎、上顎とばらばらにされていく。眼球が断ち割られ、眼房水がドロリと流れてきたときには「もう勘弁して」と言いたくなった。

■雨の中3時間の埋葬作業
屈強な男数人により、家から棺が運び出され、四輪駆動のトラックの荷台に乗せられた。トラックにはその朝に切りだしたと思われる太い青竹が2本乗せられていた。昔、棺を竹で担いだ名残だろう。荷台にはお棺の他に花輪やお飾りがぎっしり積み込まれた。

丸い円板と三日月の板、恐らく太陽と月を象徴する飾りを付けた竹竿を持った若者が先導する。会葬者はお祭りの山車を引くようにトラックに付けた縄を引きながらゆっくりと裏山を登って行った。午後から降り始めた雨で道はぬかるんで滑りやすい。子供たちはサンダルを手に持ってはだしで歩いている。
山道を15分ほど登った左斜面に墓があった。深さ1.5mの穴が掘られている。棺が穴に下ろされた。棺を覆うように故人の使っていた布団がかけられた。布団の上に故人の着ていた衣服がかけられる。服の数が多いので棺はボロ布で覆われたようになった。
墓穴を覗き込む時、注意が必要だ。もし、墓穴にカメラであれ、財布であれ、落としてしまったら絶対に拾い上げてはならないという決まりがあるからだ。

男達が山の斜面を鍬で掘り、墓穴を埋める。次に、盛り土をした墓をセメントで固める。鉄筋も使う。山道から斜面の墓まで30mはあるだろうか。山道で捏ねたセメントを会葬者がバケツリレーで墓まで運ぶ。ちょっとした土木工事だ。セメントが流し込まれたあとタイル板で墓を覆う。
死者はすでに違う世界に旅立った。迷ってこの世界に戻ることがないように頑丈に墓を固めるのだろう。雨の中、3時間の作業だった。

すべての作業が終わったとき会葬者全員が手をつなぎ、ピマの合図で一斉に手を離すというおまじないをした。このあと村へ戻るのであるが。帰り道、決して墓の方を振り返ってはならない、と釘を刺された。
日本でも火葬場に行った時は同じ道を通って帰ってはいけない、という風習をもつ地方がある。縄文人の遺骨には大石が乗せられているとも聞く。アカと原日本人のルーツは同じという傍証はこの様なところにもあるのではないか。

葬儀会場に戻るとこれから締めの宴会があるのだろうか、なんとなくにぎやかになっている。アトゥも喪主の責任を果たし、ホッとしているようだった。
もう帰るのか、と言われたが、5日にわたって、ラオカオを呑み続け、唐辛子主体の肉料理を食べ続け、300枚を超える写真を撮り続け、もう体力の限界であった。

葬儀で生贄となった水牛、豚を思い出すと、とても肉に手を出すことができず、帰宅後1週間ほど菜食主義者の生活を送ってしまった。(この項終わり)

写真一番上は、バナナの葉の雨具、以下埋葬の様子。