チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

ラオス旅行 14

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ラオス旅行(14)

■タート・シェントゥンの人込みの中で
ムアンシンは人口3万5千、住民の47%がアカ族というが、雑踏の中でアカの民族衣装を着た人は数名だった。満月のもとで繰り広げられるアカ族の民族舞踊、という予想は外れてしまったが、タイルーやモンのロングスカートもまたいいものだ。お祭りであるから皆、精一杯着飾っている。稲の刈り入れが終わったばかりの季節だから、お祭りは収穫祭の意味があるのだろう。人波は途切れることがない。ラオス国内はもとより、中国、ミャンマーからもタイルー族が集まるという。この辺り、国境はあまり意味を持たない。

我々が丘を下っていくと、小柄なラオス人の中をひときわ背の高いファランが登ってくるのが見えた。祭りの情報をくれたオーストラリア人、アランだ。早速マンフレッドに紹介する。二人が話し合っているのを少し離れているところで眺めていた。英語を聞いたり、話したりするのは疲れるのだ。アランとは翌日また会うことになる。


沙羅双樹の由来を聞く
ムアンシンにはお寺が23あるが、その一つ、ワット・ルアンにポンさんが案内してくれた。坊さんたちはお祭りに出払っていて、まるで無住の寺のように静かだった。夕陽が沙羅双樹の大木にかかっている。インドの仏教遺跡を参拝した人から沙羅双樹の葉を土産に貰ったことがある。沙羅双樹はタイのお寺でも普通に見られる木だ。インド原産の常緑樹で高さ30mにもなる。乾季の終わりにジャスミンに似た香りの白い花が咲く。
「この木の下でブッダは悟りを開いたんだっけ」とマンフレッドに聞くと「いや、ブッダが悟りを開いたのは確か菩提樹の下だ。この木は英語でバンヤン・ツリーというよ」とこちらの間違いを訂正してくれた。沙羅双樹はお釈迦さまがクシナガラで入滅した時、臥床の四辺にあったという。

沙羅双樹といえば平家物語冒頭の「祗園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必滅の理をあらはす」を思い出すが、インド産の沙羅双樹は日本では育たない。平家物語に出てくる沙羅双樹は夏椿、インド原産のフタバガキ科の木とは種類が違う。

■食事で自己の未熟さを知る
夕暮れとなり、市内の中華料理屋で夕食をとることになった。ポンさんが最初に案内した店は驚いたことに全席、白人に占められていた。ロンリープラネットにはムアンシンの満月祭りと共に、食事をするならここしかない、と記されているのだろう。隣の店に入り、ポンさんが料理を注文した。このツアーは食事つきである。あまり高価な料理を頼むとポンさんの利益が少なくなるということはわかるが、出てきたのは鶏肉と野菜の炒め物の2皿、白いご飯だけ、旅の楽しみは食事にある。こんな貧弱な料理で貴重な晩餐が終わりになるのか。

ポンさんが飲み物は自己負担です、と言ってくれればビヤラオを頼むつもりであったが何も言わない。ビールなしの夕食となった。もう少しうまいもん喰わせろい、と心の中で悪態をつきながら食べていると、セイダが傍らのポンさんに向かって「私たちのために辛くない料理を頼んで下さったのね。ありがとう」と微笑んだ。こうしたさりげない感謝の言葉が出るのは彼女の生まれの良さを示すものであろう。
セイダに引き比べ、ビールが飲めないくらいで不満タラタラの自分を深く恥じた。

■中国女性との会話
中国女性二人は北京にあるワイン輸入会社に勤めているという。ワインは高いものから売れる、中国ではシャトーラフィット、シャトーマルゴーなど1本10万円はするワインを1ケース買い、一回の宴会でがぶ飲みする、ヘネシーカミュの最高級コニャックも10本くらい、ビールのように飲む。お金持ちであることを誇示するのが中国の飲み方だ、などと英語でまくし立てる。マンフレッドは言葉もない。

「米国でも日本でもバブルははじけた。永久に右肩上がりの経済はあり得ない。上海では不動産、株式の値下がりが始まっているし、消費者物価の上昇は激しい、あなたたちのビジネスがこれからもうまくいくとは思えないのだが」と口をはさんだ。どういうわけか彼女たちはずっと自分を無視し続けていたので、これが彼女たちと交わす初めての会話だった。
「ウーン、北京でも物価は上がっているわ・・」。話題は別の方向に移っていった。

レストランを出る時、中国女性が傍らにいる自分にはっきり聞こえるように言った。「中国はもう一度日本と戦争すればいいんだ」。思わず「For what?(何で?)」と聞き返してしまった。考えてみれば彼女たちは天安門事件以降の反日教育にどっぷり浸かって成長した年代だ。中国の若い世代の対日感情を垣間見たようで、いくらか複雑な気持になった。(続く)

画像はラオスで撮影