チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

ソフトボール親善試合

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ソフトボール親善試合

■チェンライ・サムライ
第2、4日曜日がソフトボールの練習日だ。ラジャバット大学付属小学校のグランドに朝8時半、数人から12,3人の元野球少年が集まる。来た人から軽くキャッチボール、全員そろったところで体操、それから一人10分ほど打撃練習、打者以外は全員守りにつく。グランドはレフト方向が広いが、ライト方向は極端に狭い長方形となっている。レフトに飛んだ打球が抜かれると,球は転々と転がって、グラウンドの外の下り坂をさらに転がっていく。球拾いでまず疲れる。一通り打撃練習が終わると、メンバーから疲れた、もうやめよう、の声が出てきて終わりになる。

10人上の参加者がある時は紅白試合ができる。サード、ショート、ファースト、レフト、センターの5人は最低必要。通常、右方向を守る人がいない。以前はライト方向に打ったらアウトという奇妙なルールがあった。左打者の自分がちょっと引っ張ると、打球が飛んだ瞬間にアウトになってしまう。
紅白試合も回数を決めてやるわけではなく、10時近くなってくると誰からともなく、次で終わりにしよう、と声がかかっておしまいになる。怪我をせずに楽しくやる、がモットーのチームだからこれで皆満足している。

せめてチームの名前を決めようという話があった。野球道具提供者である監督が「チェンライ・ファイターズ」はどうか、といってホームベースにその名を書きこんでいたが、一部に「チェンライ・サムライ」が韻を踏んでいていいんじゃないかという声がでた。メーサイのKさんが自費で「サムライ」とタイ語でプリントされたTシャツを10枚作ったので、どうやらチーム名は後者に決まったようだ。但し、これも正式決定ではない。なんでもいいじゃんというタイ思考がメンバーに浸透しているせいだろうか。

チェンマイのチームから挑戦を受ける
チェンマイにもソフトボールチームがある。我々より古い歴史を持っている。またチェンマイの在留邦人の数はチェンライとはケタ違い。練習に集まるメンバーも20数名、常にフルメンバーの紅白試合ができる。それに毎週土曜、隔週木曜、月6回も練習している。我々の3倍の練習量だ。往年の甲子園球児が、成せばなるとか言って、千本ノックは無理にしても百本ノックでチームを鍛えまくっているのではないか。

ブログによると、「チェンマイソフトボール・クラブ」は総会で会則を正式に決定し、代表、監督、主将をそれぞれ正副2名、事務局、会計、用具係り、親睦会係りなどを選出した、とある。会の目的は『ソフトボールを通じて、会員相互の親睦を深め、人間性、技術及び体力の向上を図り、健康を維持することを目的とする』。もちろん月額で会費も徴収している。我々チェンライ・サムライとはソフトボールに対する意気込みが違う。
そのチェンマイから試合を申し込まれた。向こうは部員100名のPL学園、こちらは部員11名の池田高校、あるいは物量を誇る米国と大東亜戦争直前の日本という構図だ。負けるかもしれないが戦わずして敗者の汚名を着ることはプライドが許さない、などと息巻くのは自分だけであって、我がチームメートは1対40でも怪我せず楽しくやれればいい、と達観したものだ。

■決戦関ヶ原
試合会場はチェンライとチェンマイの間にあるメースアイの小学校のグランドだ。
テキは背番号入りユニフォームを着用、袖には「チェンマイ」の刺繍、胸には小さな日章旗が付いている。試合前の練習ではノックをする人が「サード」といって打てばサードに球が飛ぶし、「センター」といえばちゃんとセンターにフライが上がる。残念ながら我がチームにはこういった特殊技能を持った人はいない。

チェンマイはすっかり我々を呑んでかかって、30点差くらいで勝つつもりであったようだ。しかし、第一試合は我がチームの79歳のエース、Sさんが守備の乱れを気にせず淡々と6回を投げ抜き、負けはしたが11対17の僅差で終わった。第二試合は控え投手、72歳のHさんがチェンマイから三振を取るなどの好投を見せ、終わってみれば、なんと15対5でチェンライ・サムライの勝ち、予想外の展開にチェンマイチームは声もなく、スコアブックの記入を途中でやめるほどのショックを受けていた。ゴルフではインとアウトの合計スコアで優劣を競うが、今回のソフトボールでは2試合の点数差を見れば、チェンライの勝ちといっていいと思う。

試合会場はチェンマイから130キロ、チェンライから50キロほどの地点だった。チェンマイチームは関ヶ原に辿りつくまでに体力を消耗してしまった西軍ではなかったか。それにしても勝負はやってみなければわからない。