チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

カナダの新聞から

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カナダの新聞から

認知症であっても母はなんでもわかっている、と書いた。海を隔てて、その通り、と言ってくれているエッセイを知人が送ってくれた。The Globe and Mail 紙に読者が寄せたもので、著者はトロントに住むエイプリル・ケミックという若い女性だ。



               おばあちゃんの贈り物
                 April Kemick

 クリスマスの朝目を覚ますと、ブラインドから射し込んだ光が私の頬にあたり、暑かった。私は二日酔いだった。

 私の両親の家の古いベッドに服を着たまま倒れこんだのは、もうほとんど夜が明けようとする頃だった。私達の例年のクリスマス・パーティは申し分ない大成功だった。沢山の友人が私の両親の家に集まってきて、笑ったり、おしゃべりしたり、幾度も幾度も乾杯した。最後の一人が寒さの中をヨロヨロしながら帰って行ったのは午前5時だった。

 クリスマスの朝は早く来すぎる。両親と妹と一緒の朝食を終え、贈り物を交換し、その後親戚を訪問するために車に乗り込む。

 私はズキズキと頭が痛く、あまり親戚など訪問したい気分ではなかった。1ケ月前におじいちゃんが亡くなった。おじいちゃんはキラキラと光る青い目を持っていた。おじいちゃんは簡素な蝶ネクタイをつけて旅立った。そのおじいちゃんは、クリスマスには家で七面鳥を食べないで、おばあちゃんの所に行って一緒に食べるのだった。おばあちゃんは2年前から施設に入っていたのである。

 車はハイウエーを走っている。私は出来るだけ施設のことは考えまいとした。そこには、程度の差はあれ物忘れのひどい、年とったご婦人達が住んでいる。ご婦人達はだらしない服装で廊下をよちよちと歩いているのだ。何か耐えがたい雰囲気がある。

 一番気になるのは私のおばあちゃんだった。おばあちゃんは、アルツハイマーの診断を受けてから徐々に記憶を喪って行った。最初は少し気になる程度だった。おばあちゃんは、失敗の度に薄くなった頭の毛を掻くのだった。その内に眼はキョロキョロと何かを探しもとめるようになった。

 まだその頃は、私の知っているそして大好きな何時も優しい「おばあちゃん」だった。おばあちゃんはトランプの名手だった。けれども年がたつとおばあちゃんは私達の世界から離れて行った。4年前までは、おばあちゃんは私と妹の名前を知っていた。少なくとも3年前までは、私のお母さん(おばあちゃんの末の娘)が分かっていた。だが2年前には、口を開いても一つの単語しか出てこなくなった。おばあちゃんの病状が悪化するのを見ているのは本当に辛かった。

 今回施設を訪ねるのは私のためではなかった。お母さんがおばあちゃんの手を握って、おじいちゃんのかわりに「メリー・クリスマス!」と言って上げたいからなのである。もちろんプレゼントを上げてそれを開いて上げるのである。おばあちゃんの指はもう効かなくなっているからである。

 おばあちゃんは蒼白い顔をしていた。髪の毛は少し臭くなっていた。おばあちゃんは何も分かっていないようだった。誰かが着替えさせてくれていたのだが、シャツには食べこぼしがへばりついていた。おばあちゃんは車椅子にへたりこんだように座っていた。

 私は部屋の窓から外を眺めていた。そしてこの痛ましい時間が早く過ぎていってほしいと願った。

 私のお母さんはおばあちゃんのために色々な物を持ってきていた。パジャマとか、甘いものとか、詩集とか。その詩集は、死んだ人を悼み残された人々に慰めを与えるような詩を集めたものだった。私のお母さんは、おばあちゃんにおじいちゃんの死をそれとなく報せたいと思っていたのである。もちろんおばあちゃんはそのことを理解できないとは分かっていたのであるが。

 プレゼントを渡したあと、お母さんはおばあちゃんの車椅子の傍に座って、詩集をひらいて読み出した。

 「私は地上の世界で無数のクリスマス・ツリーを見てきた
  小さなライトが雪の上に天国の星のように映っていた
  その光景はすばらしいものだった
  どうかもう私のための涙はぬぐってください
  今年のクリスマスは、私はイエス様と一緒なのだから」

 お母さんの声はかすれた。お母さんは涙を拭いた。でもおばあちゃんの表情には何の変化もなかった。

 私はお母さんを助けて上げたいと思った。私はその場の雰囲気をこわしたくなかったので、詩の残りを読んであげると申し出たのである。

 私が詩を読んでいる間、お母さんはおばあちゃんの手をそっと握った。お母さんは嗚咽をこらえながらおばあちゃんの傍によりそっていた。私は自分の喉が熱くなるのを覚えた。妹は私のすぐそばに立った。廊下を患者が歩いていた。

 私は何かを見たように思って、詩集から顔を上げた。すると、おばあちゃんが車椅子の中で身動きして私のお母さんを抱くような仕草をしていた。そして、お母さんの髪を撫でていた。

 私が一番ショックをうけたのはおばあちゃんの眼だった。おばあちゃんの眼は暖かく輝いていた。ここ何年かに初めて見たおばあちゃんの生き生きとした眼だった。おばあちゃんの眼は、私のお母さんに対する愛と喜びと理解とをたたえていた。

 私はポカンと口をあけてお父さんと妹を見た。お父さん達も今私が見たものを見ただろうか?お父さん達も驚いたようにおばあちゃんを見つめていた。私は読みかけていた詩を終わりまで読んだ。

 「どうかあなたの魂が喜びにみたされ、あなたの魂が歌を歌うように
  何故なら私は天国でクリスマスを祝っているのだから
  そして君なる主と一緒に歩いているのだから」

 おばあちゃんは私のお母さんの目の涙を優しくぬぐってくれていた。そしてジッとお母さんの目を覗き込んだ。私のお母さんはおばあちゃんを見返して、「お母さん、私はあなたが大好きよ」と言った。

 お母さんのその言葉は、もう何年も答えられることなくこの部屋の中に漂っていたのだ。今、おばあちゃんは、はっきりと力強く「私もあんたを愛しているのよ」と言った。

 私の心の中に何か暖かいものが湧き出てきた。妹は私の体に腕を回して抱き締めた。私達はお父さんをハグした。私達3人はおばあちゃんとお母さんの周りで微笑みながら涙を流した。

 それから間もなく私達はおばあちゃんの部屋を後にし、寒い駐車場を足早に車に向かった。でも誰も寒さについて不平を言わなかった。誰も今晩の七面鳥のご馳走を食べるのが遅くなることについて不平を言わなかった。誰もおばあちゃんが一時的にせよあんなにはっきりと意識を取り戻したことについて何も言わなかった、おばあちゃんはすぐ自分の世界に戻って行ったのだけれども。私達は心の中であの一瞬のことを思い出し心に焼き付けた。

 車の後の座席で、妹は私の手を握った。車の中のラジオは、心にしみいるようなクリスマス・キャロルを流していた。私達はお互いに顔を見合わせ微笑みをかわした。遠く施設の建物の軒に赤と緑の電球が見えた。でも車が方向を変えるとすぐ見えなくなった。

(長文で申し訳ありませんでした。年末、年始のお休みを頂き、1月6日から当ブログの更新を再開させていただきます。2011年が皆様にとりまして佳い年となりますようお祈り致しております。)

上二枚の写真は北タイ、下はラオス国境フエサイから見た夕日です。