プノンペン1泊
■商売熱心
国立博物館の見学を終えるとトゥクトゥクの運転手はやおらプラスチックケースに入ったA4の紙を取り出した。王宮、ワットプノン、キリングフィールド、トゥールスレン刑務所博物館などプノンペンの見所と運賃が英語で書いてある。キリングフィールドはプノンペン市内から15キロ、9千体に及ぶ遺骨を納めた慰霊堂や死体を投げ込んだ穴がそのままにある。写真を撮りやすいように骸骨を並べ直してくれる、などとモノの本には書いてある。自分としては余り行きたくないところではあるが日本人には人気の場所とのこと。彼は熱心に勧めてくれたがあとの予定もあり、明日まだプノンペンにいたら、という条件で解放してもらった。シェムリアップでもここでも皆英語を良く話すし、仕事熱心である。アンコールワットでは小学校低学年と見える少年が、日本語で、絵葉書、12枚で1ドルだから、ネー、ネーとまとわり付いてきた。断るとはっきりした日本語で「それでは、何が欲しいの」と問い返してきた。この程度の会話であれば、彼らは10ヶ国語くらい喋るのではないか。タイでは先ず考えられない。「シャチョーサン、シャチョーサン、コレヤスイ」程度だ。最近ではシャチョーサンの代わりに「カイチョーサン」と呼びかける。せいぜいこの程度。
■Mさんと再会
JICAのMさんにはウズベキスタンで大変お世話になった。お宅に何度も呼んで頂いたし。仕事の上でもいろいろ便宜を図って頂いた。ウズベク国内巡業も彼の協力なしでは出来なかった。Mさんは自分のウズ滞在中に帰任された。彼が帰任に当たって残してくれた日本食材はタシケント在住邦人を大喜びさせた。凍りついた道をMさん宅に向かったあの日を今でも鮮やかに思い出す。
(「賞味期限切れ」、2008年1月をご参照ください http://blogs.yahoo.co.jp/uzbekistan24/39876965.html )
ウズベクに比べて、カンボジアはJICA関係者及び在留邦人の数が多い。日本人学校はまだないが補習校はある。。丁度その日はMさんのお宅ではお嬢さんの誕生会が補習校関係者中心に開かれていた。そのパーティに闖入したかたちとなったのだが、そこで図らずもウズベクの名物料理、プロフをご馳走になった。奥さんの話ではプノンペン在住のロシア人でプロフを上手に作る女性がいるとのこと。ウズにいるときは油おじやのプロフに辟易したものであるが、まさかカンボジアでプロフにお目にかかれるとはと、残っていたプロフをほとんど平らげてしまった。
その夜はご一家とプノンペン市内のレストランで食事をした。国民一人当たりの所得はウズベクもカンボジアも同程度である。比較材料は多く、話は尽きなかった。宗教オタクと自認する奥様にもっと仏教やヒンズー教のことをお聞きしたかったのであるが、時間が短すぎた。MさんはJICA関係者のアテンド、地方出張などで超多忙である。自分と会えたのは惑星大並列のように丁度この日の夜だけが空いていたという偶然による。何処に住んでいても会える人には会えるようになっているのです、とウズで奥さんが言っていたことを思い出した。ご夫妻に会えたのは必然だったのであろうか。
■ プノンペン国際バスターミナル
Mさんご一家とも再会できたし、骸骨を見る趣味もないので、翌朝、プノンペンからコーコンを経てタイに再入国することにした。Mさんと別れ、夜10時にGHでコーコン行きのバスの切符を手配した。料金は15ドルほど、距離は300キロ前後か。この日の昼過ぎにシェムリアップからバスで着いて、国立博物館見学とMさん宅訪問、翌朝はまたバスで国境まで。まるでキャンペーンの新人歌手のような強行軍だ。
プノンペンのバスターミナルはシェムリアップのそれよりずっと垢抜けている。コンビニもある。ここからタイ国境はもちろんベトナム各地にもバスが出ている。大型バスに混じってミニバス、トゥクトゥク、バイクがひしめき、大きな荷物を持った人や物売りでごった返している。アジア的な活気にあふれている。ターミナルを囲むよう中華料理屋が軒を連ねている。漢字の「○○餐庁」の文字ばかりだ。まるで中華街であるが、これはカンボジアに対する中国の影響力を示すものであろう。カンボジアに対する投資額はダントツで中国が多い。次いで韓国、日本は10番目くらいだ。
乗るバスを確認してから物売りからフランスパンを買う。ちょっと齧るつもりがバケットを1本、何もつけずに食べてしまった。フランスパンの美味しさはこの国がフランスの植民地であったことを示している。
上の二枚の写真はバスターミナル、下は「高級クメールレストラン」