チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

「ライ王のテラス」から想う

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「ライ王のテラス」から想う

今住んでいるチェンライのチェンは城、ライは13世紀にランナー王国を築いたメンライ王のことをさす。だからチェンライは「ライ王の城」だ。この名前の由来が頭にあったものだから、「ライ王のテラス」のライはモンライかミンライかライが付く王様の名前かと誤解していた。ライ王のライはハンセン病の「癩」であるが、この漢字は自分のPCでは変換できない。この漢字を取り出すのに大層苦労した。それは「癩」が差別用語に指定され、使用してはいけないことになっているからだ。ネット検索でもほとんど「ライ王」と書かれている。でも「ライ王」では悪蛇と戦い、その祟りを受けてしまった王の悲劇性は感じられない。三島由紀夫も「ライ王のテラス」では怒り出すに違いない。差別用語集には癩病を「ハンセン病」と言い替えること、と書いてある。しかし「ハンセン王のテラス」では西洋が舞台のお芝居になってしまう。 

帰国したら読もうと品川区図書館の蔵書検索で「ライ王のテラス」を検索してみたら、「一致するものはありません」とすげない回答。「癩王のテラス」で入力しなおして、単行本や全集に収録されていることを知った。

■ マルコによる福音書(1・40-45)
『〔そのとき、〕重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」(以下略)
日本聖書協会販売の新共同訳聖書からの引用である。本書によるとイエス様が治されたのはアトピーか水虫のような皮膚病という書き方となっている。今ではハンセン病は完全に治癒するし、感染力も弱い病気であることが分かっている。しかしイエス様の時代は社会的に恐れられ、疎まれる病であった。天刑病、業病(以上放送禁止用語)といわれ、何も罪がないにも拘らず、天罰として癩病患者を差別する時代があった。信仰の外に置かれ、誰もが触りたくない、穢れた病いの患者を「深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ」たイエス様の心の深さが、「重い皮膚病」と訳した新共同訳聖書からは伝わってこない。この聖書はハンセン病とその差別の歴史に阿っているとしか考えられない。
公的には「らい」と言ってはいけない。数年前、南野法相が「法務省でも『らい』に対する啓発が必要で、予算をお願いしました」と県議の新年会挨拶で発言したため朝日新聞にこっぴどく怒られている。こういうときの朝日はまことに元気がよろしい。

放送禁止用語
自分が書いているブログにも「飯場」、「乞食」、「呆け」、「女中」などの差別語、不快語がかなりある。いつ朝日新聞の指弾を受けてもおかしくない。無論、公人ではないから大丈夫であるが、読む人を不快にしてはいけないとは思っている。

差別用語には/Χ蛤絞漫↓⊃歓半祿下坿慙◆↓I落、身分差別、ぬ餌穏絞漫↓イ修梁樟差別などの分類がある。
職業に関する差別語では線路工夫、郵便夫、雑役夫など夫が付く言い方は軒並みだめ。知人に「農夫(のぶお)」という名前の人がいるがこれもいけない。沖仲仕、土方、クズ屋もだめ。保線区員、郵便配達員、作業員、農民、港湾労働者、建設作業員、地上資源回収業者と読み替える。
障害者関連では盲(めくら)、跛足(びっこ)、聾(つんぼ)、唖(おし)などはだめ.○○の不自由な人と言い替える。
盲滅法,明き盲、盲判などもだめ。最近、テレビで勝新太郎主演の「座頭市」シリーズが見られなくなったのは、座頭市を取り囲んだヤクザが「このドメクラ、やっちまえ」と叫ぶ場面があるからであろう。精神障害関係では「狂う」とか「気違い」はだめ、巨人の星で「お父さんは野球気違いだから」という台詞があったが、これは「お父さんは野球マニアだから」と書き直さないといけない。石原東京都知事が「弟の出演した映画『狂った果実』はテレビではもう見られない。『狂った』が良くないらしいんだね」と言っていたのを思い出す。
身分差別では部落、新平民、穢多、四つなどは絶対に使ってはいけない。四つん這いは、手足を地面につける、四つ辻は十字路(朝日放送)、またエタノールは、エチルアルコールと言い替えるのが望ましい・・・・・(?)

言い替えによって本来言葉が持っているはずのなにかが失われる。それは自分にとって不快なことである。

画像はいずれもアンコールワットで撮影(上から物乞い、回廊、象散歩)