チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

余り上達しないけれど

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余り上達しないけれど・・・(テニスとタイ語)

■テニスを始めたきっかけ
テニスは上流階級のやるスポーツと思って敬遠していた。軽井沢、皇太子様、美智子様のイメージだ。大学ではテニスラケットを持ち歩いているクラスメートを「あん人たちゃ、よか衆」と横目で見ていた。高校生の時のクラブ活動もお金がかからないという理由で水泳部に入っていたくらいだ。
社会人になり、30歳の時にイランにある石油化学プラントの建設現場に派遣された。丁度イラン革命のさなかとあって飯場から外出できない。幸い、飯場(キャンプといった)にテニスコートがあり、70ドルのラケットを譲ってくれる人がいたので、齢30にして初めてテニスに手を染めることになった。他にやることはなかったし、毎日のようにコートに出た。当時の日記を見ると37日間連続でコートにたっている。就寝前には腱鞘炎になるほど素振りをやった。
しかし、赴任してから半年足らずで、建設作業自体がイラン革命のために頓挫することになる。救援機でイランを脱出したことはブログにも書いた通り。

ウズベクでテニスを再開
それから30年、テニスと全く縁のない生活を送った。ひょんなことからウズベキスタンに暮らすことになった。現地で何か体を動かさなくては、と思っていた矢先、またラケットを譲ってくれる人があって、テニスを再開した。週1回ではあったが仲間とテニスを楽しんだ。ウズベクでは上級者が自分のような初心者を丁寧に指導してくれた。お陰でテニスの面白さが少しわかってきた。
帰国後、母の介護を手伝いながら、テニスクラブを探した。私営のクラブの月会費は何万円もする。やはり庶民のスポーツではないのか、とあきらめかけていたところ、イラン時代の友人が市営コートを借りて活動しているクラブに誘ってくれた。クラブ創設は30年前、皆、若かったそうだが、友人とともに仲間も年取って50代、60代が中心だという。自宅から3,40分で行ける。早速入会した。自分のテニスの腕は、というとクラブの中ではCクラスである。会員の人たちは紳士、淑女ばかりで、自分のような下手とダブルスを組んでもいやな顔はしない。心の中で「どうして、そんなとこにボケッと突っ立ってるの!」と思っても決して口に出したりしない。ご好意に応える為に少しでも上手くなりたいと、品川区の行なうテニス教室に通った。初めて受ける正規のテニストレーニングだ。ところが余り張り切りすぎて右ひざを痛めてしまった。それでも力士は稽古で怪我を治すとばかりに毎週テニスに打ち込んだ。医者から「老後が大切ですか、テニスが大切ですか」と警告されたが、確かに年齢のせいか松井秀樹選手より回復が遅かったような気がする。

■テニスとタイ語の共通点
タイ語のジアップ先生(画像下)には、「テニスと同じように毎日タイ語も勉強して下さいね」といわれている。外国語はこの程度でいいという自分の標準を持ち、そこに達したと思ったら「話せます」と言ってかまわないと思う。例えば、買い物、ホテルの宿泊交渉、レストランでの注文といった旅行会話が出来れば充分という人はいるだろうし、3ヶ月まじめに勉強すれば旅行に支障ない会話は出来る。「話せます」は自己申告で、検証のしようがない。
テニスもこれに似ている。「テニス、できます」、といったところで、どれくらいの腕前か、は実際にプレーするかプレーしているところを見てみなければ判らない。これがゴルフであれば、ハンデは10です、時にはハーフで40を切りますなどと聞けばホウホウということになる。陸上競技や水泳も記録を聞けば実力の程度はすぐわかる。テニスもタイ語も「できます」と言いたいところだが、いまだ目標のレベルには程遠く、やればやるほど奥の深さを感じる。

やり方はあるにしろ語学もテニスも掛けた時間に比例して上達するといわれている。しかし自分の場合、年齢から来る衰えがある。身体的、頭脳的上達曲線は高校生の時のように右上がりではなく、フラットに近くなっている。テニスもタイ語も習ったことを忘れがちであるし、同じミスを何度も繰り返して、そのたびに情けない気持になる。でも落ち込むことが謙虚さにつながり、次のステップに上がろうとする取っ掛かりになると信じている。何もしなければ落ち込むことはない代わりに、レベルアップする機会を失ってしまう・・・・などと偉そうに書いてみたが、テニスもタイ語も本当は面白いから、楽しいからずっと続けているというのが正直なところだろう。

画像上はテニス仲間