チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

シェムリアップからプノンペンへ

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シェムリアップからプノンペン

■かつての大国カンボジア
現在のカンボジアは周囲をタイ、ラオスベトナムに囲まれたインドシナの小国である。しかしかつてクメール民族は、9世紀から15世紀にかけて、現在のカンボジアの国土に加えてベトナムの南半分、ラオス南部、そしてタイのほとんど、つまりインドシナ半島マレー半島北半分を領土とする大国、クメール王国を作り上げていた。軍事的、経済的、また文化的にも大国で、当時の中国から真臘国と呼ばれ一目置かれていた。
しかしながら東にベトナム、西にシャムという好戦国に挟まれ、また王位継承に伴う内乱もあって次第に衰退していく。一方、タイの始まりは13世紀のスコタイ朝といわれるが、実際はクメール王国の属領だった。その後、アユタヤ朝がスコタイを併合し、1432年にはクメール王国をシュムリアップから追い出すまでに版図を広げた。この地が正式にカンボジアに返還されたのは20世紀に入ってからのことだ。

カンボジア、タイの確執
シェムリアップのシェムはシャムを、リアップは追い出すという意味、つまり、「出て行け、シャム」が地名となっている。17世紀にクメールがこの地をアユタヤ朝のタイ人から取り戻したことがあり、地名はそれに因んでいる。
文化的栄華を誇ったクメールの遺跡はアンコールワット以外にも、またタイ、カンボジアラオスの国境地帯にもいくつかある。2008年にはタイ東北部のカオプラヴィハーン(カンボジア名、プリアビヒア)遺跡の領有を巡って、タイ、カンボジア両国軍が衝突して死者が出た。同遺跡は10世紀から200年かけて建造されたクメール遺跡で、代々クメール王が巡幸するところだった。今は国際司法裁判所の裁定によりカンボジア領となっている。

他にも両国が領有を主張する遺跡が数箇所あり、時折、新聞紙上をにぎわせる。そういえば先般、「アンコールワットはタイのもの」とタイの有名女性歌手が発言したとして(事実ではないらしいが)、激昂したカンボジア市民がタイ大使館を取り囲んでプミポン国王の写真を焼く騒ぎがあった。カンボジアにしてみれば、文化的に劣るシャムが偉そうに何だ、本来ならスコタイはもちろん、タイ全土はクメールのものだぞ、と言いたいところだろう。カンボジア政府は、タイ政府が目の仇にしているタクシン元首相をカンボジアの「経済顧問」に迎え入れるなど、タイの神経を逆なですることを平気でやっている。アルザス・ロレーヌを巡る独仏の確執を見るまでもなく、陸続きの国同士の付き合いは難しい。

プノンペンへ、バスで7時間
ウズベキスタンでお世話になったM夫妻がJICAの調整員としてプノンペンに勤務している。連絡して先方の都合がよければプノンペンへ、だめならばシェムリアップにもう2,3日と思っていた。
「今、シェムリアップですが明日、会えますか」と電話した。Mさんは突然の連絡に驚いたようだが、空いているとのこと。早速、翌朝発プノンペン行きの切符を買う。VIPバスで15ドル。シェムリアッププノンペンは直線距離で240キロほど、バスで6‐7時間でいけるとのこと。
バスターミナルは市内から数キロ離れた所にあった。ターミナルというより、解体バスの集積所のような雰囲気だ。今にも壊れそうなバスが雑然と並んでいる。その間を、乗降客、弁当売りや絵葉書売り、あるいは物乞いなどでごった返している。もちろん行き先の表示などない。切符を通りすがりの人に見せて目的のバスにたどり着く。
すいているなと思っていたら出発間際に、外人が山ほどやってきてあっという間に満席になった。一応指定席になっているようで、自分は最後尾の席だった。隣はアンコールワット見物を終えて、ホーチミンシティに帰る老婦人と孫娘、そして老婦人のお兄さん。おばあさんは片言の英語で、もう10カ国くらい外国に行った、日本にも2回行った、などと自慢し始めた。モスクワにも2度行ったというからベトナム共産政府の幹部だったのだろうか、年恰好からいったら兄妹がベトコンで活躍していた可能性はある。シェムリアップからプノンペン経由ホーチミンシティまでバス運賃は片道17ドルとのこと。アンコールワットを訪れる外人観光客は第一がベトナム人、2番目が韓国人という。往復3千円余りで外国旅行が出来るのだから、隣国ベトナムからの来訪者は多いのだろう。
ベトナム婆さんがひっきりなしに勧めてくれるバナナ、ブドウ、きゅうりを有難く頂くなかを、バスは南東へ、プノンペンへと下っていった。