チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

アンコールワット 2

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アンコールワット その2

■最後に行くべき世界遺産
トゥクトゥクの運転手は3時間後に戻って来い、といったが、マハーバーラタラーマーヤナなどインド叙事詩の劇的場面やスールヤバルマン2世の偉業を彫り込んだ全長数キロに及ぶ回廊壁面を眺めているととても3時間では足りない。巨大建築ではあるし、また急な階段もあり、普通であれば疲労困憊ということになるはずであるが、意外と疲れを感じないのはクメール建築の整然たる幾何学的平面展開と塔堂の立体的な配置により、おおむねどの場所も左右対称(シンメトリー)に見えるからではないかと思う。重厚であり、視覚的に安定感と安心感がある。

アジアを旅する人はタイより先にアンコールワットに行ってはいけない、という人がいる。タイの誇る世界遺産、スコタイ、アユタヤ、カンペンペッの仏教遺跡は、まあ言ってみればクメール文化の亜流であり、規模は小さく、芸術的にもアンコールワットの足元にも及ばない。はっきり言えばタイの遺跡はアンコールワットに比べてしょぼい。アンコールワットを見てしまうと、タイはもちろん他の国の世界遺産も大したことないな、と思ってしまう。好みがあるだろうが、サマルカンド、ブハラなどのウズベク世界遺産アンコールワットの前には色あせて見える。あちこちの世界遺産を見たいと思う人はアンコールワットを最後の訪問場所として大事にとっておくべき、と個人的には考える。

■400年前の日本人参詣者
アンコールワットは元々ヒンズー教の寺院として建造されたが、アンコール朝がシャムに攻められ、都をシェムリアップからプノンペンなどに移した後は、上座仏教の寺院として栄えた。江戸初期にはかなりの日本人がアンコールワット詣でをしていたようだ。寺院の十字回廊の壁面上部に慶長12年(1612年)から寛永9年(1632年)にわたり、「肥後の国、嘉右衛門尉、同行9人」、「肥前、孫左衛門」とか墨書による落書きがある。落書きも400年も経てば立派な歴史資料だ。平戸、長崎、肥前、更に泉州堺や大阪商人の名も見える。当時は朱印船貿易が盛んで、シャム、ルソン、カンボジア、チャンパなど19ヶ所に7千人の日本人が居住していたという。朱印船は初冬の北風にのって南航し、初夏の南風を利用して帰航した。交易貨物の上げ下ろしが終われば風待ちとなるわけで、その間、多くの日本人がアンコールワットに参詣したことは想像に難くない。アンコールワットは「祇園精舎」として当時の日本人に知られていた。祇園精舎はお釈迦様が説法を行ったお寺で、インド中部、コーサラ国の舎衛城にあった。だが東南アジアは「南天竺」と言われていたし、波濤千里、更にメコン川を遡り、密林の中に姿を現す壮大な仏教寺院を16,7世紀の日本人が祇園精舎と誤認したのは無理からぬところである。

■絵図面、祇園精舎の作者
商人ばかりではなく、肥前松浦氏に仕えた森本右近太夫という武士が寛永9年(1632年)にアンコールワットを訪れている。壁に漢文で「御堂を志し数千里の海上を渡り、一念を念じ世々娑婆浮世の思いを清めるため」、仏像4体を献じたとある。
肥前の平戸からは南蛮行きの船が多く出ており、その船に便乗したものであろう。
右近太夫が仏像4体を奉ったという十字回廊にはカンボジア内戦以前には300体ほどの仏像があり、荘厳な雰囲気であったというが、ポルポト派によりほぼ全部破壊されてしまった。
彼がこの落書きを書いてから3年後の1635年に徳川幕府鎖国令を出す。外国に行ったことがはばかられ、右近太夫は歴史の中から姿を消していたが、最近の研究で水戸徳川家に伝わる「祇園精舎」の絵図面の作者が右近太夫だろうと類推されている。この絵図面はアンコールワットの実測図とほぼ一致する。

アンコールワット「遺跡群」
アンコールワットの北隣に更に大きなアンコール・トム(大きな都市の意味)がある。これは一辺3キロの城壁に囲まれた城郭都市である。この中央にヒンズー・仏教混交の寺院、バイヨンがある。壁が仏様の顔になっていて、モナリザとも比較される謎の微笑を浮かべている。アンコールワットに劣らず、ここも見所一杯だ。世界遺産アンコールワットは「遺跡群」が後についていて、アンコールワットとその周辺の300にも及ぶ遺跡がまとめて世界遺産となっている。
歴史に思いをはせながらじっくりみようと思ったら、とても1日では見尽くすことは出来ない。またその感想をブログに書くとなるとどれほどの長さになるのかわからない。

(「アンコール・ワットにおける日本語墨書」上智大学石澤良昭著を参考にしました)

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