チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

アンコールワット

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アンコールワット

■入場券は20ドル
アンコールワットの日の出を見る、という人気ツアーがあるのだが、バス旅行に疲れた熟年には早起きは無理だ。8時過ぎにトゥクトゥクで市内から数キロ離れたアンコールワットに向かう。途中に入場券売り場がある。大型バスやタクシー、トゥクトゥク、バイク、自転車などがひしめき、窓口にはファランの行列が出来ている。さすがは世界遺産、観光客の数も半端ではない。ネットには入場券に貼り付ける写真が必要などと書いてあったが、現在は空港の入管にあるような自動カメラが設置されている。おお、文明の進歩はすばらしい、と感心した顔が印刷された入場券を即座に発行してくれた。1日券が20ドル、3日券が60ドル。入場券売り場から更に10分ほど走って、やっとアンコールワットの入り口、西参道へと着いた。逆光の中に黒く小さくワットの伽藍が浮かび上がる。トゥクトゥクの運転手は3時間後にここに戻って来い、といっていなくなった。

■ 壮大なアンコールワット
ここを世界遺産といわずして、何処を世界遺産というのか、まず圧倒されるのは世界遺産の中で最大級といわれるスケールの大きさだ。境内は東西1,500メートル、南北1,300メートル、幅200メートルの濠で囲まれている。堀を左右に見ながら伽藍へと向かう。この石畳の参道は直線で700メートルある。9世紀初め、群雄割拠の国内を統一したクメール王国が誕生し、インドシナ半島を席巻する大帝国として繁栄への道を辿る。アコールワットはそのクメールの国力が最高潮に達した11世紀、アンコール朝スーリヤヴァルマン2世の時代に30年の年月をかけて建設された。その当時、アンコールワットには50万人の人が住み、毎日1万2千人の石工、彫工、大経師、仏師が寺院建設に従事したと伝えられている。巨大な伽藍に近づいていくとき、誰でも心の高ぶりを覚えるに違いない。参道から見える3基の塔堂の印象的なシルエットはカンボジア国旗にも採用されている。塔堂の高さはタジマハール、日本の国会議事堂とほぼ同じである。

■寺院の変遷
アンコールワットはクメール的宇宙観を地上に具現したものという。すなわち塔堂が世界の中心須弥山(しゅみせん)を、周壁がヒマラヤの霊峰を模し、周囲の堀が深く無限の大洋を象徴する。この寺院の主神はヒンズー教のビシュヌ神である。王はビシュヌ神の化身であり、寺院は神の顕在と王の死後の墳墓として建立された。アンコールワットは造営に至るまでに10回も建築様式の変遷と展開があり、建築技術の改良や習熟、経験が集積され、美術様式の発展とともにこの大伽藍の建立となった。この建物の壁面の空間を埋め尽くしたあでやかな容姿のデバター(女神)像、破風(はふ)などの秀逸な彫刻、列柱や方柱の表面に彫り込まれた精緻な装飾模様、円柱窓や砲弾形の塔堂など、独創的な造形と美術的天分を発現している。1432年、アンコール朝がプノンペンに遷都した後は小乗仏教の寺院として栄えた。中央祠堂には5メートルの大きな仏像が安置され、現在に至っている。しかし、伽藍は1979年、プノンペンを落ち延びて来たクメールルージュの軍事施設となり、そのときに多くの仏像が破壊されてしまった。手足や頭部のない仏像を伽藍内で多く見ることができる。それでも完全に破壊されたアフガニスタンバーミヤン仏教遺跡に比べれば幸運だったと言えるだろう。

■修復進む遺跡群
アンコールワットユネスコ危機遺産にも登録されている。主として軟らかい砂岩やラテライトで築かれているため、損耗が激しい。以前は塔堂のてっぺんまで60度の急勾配を手足を使って登ることができたのだが、石段が磨り減ってしまったため、現在は登れない。日本は1989年から遺跡の復興協力を行っている。他にもフランス、ドイツ、インドなど各国の修復プロジェクトが進行中だ。日本は西参道北側、前庭南にある経蔵などの修復を行っており、経蔵の前には日本語の記念プレートがある。修復にもお国柄があるようで、日本の修復は当時の材料を用いて入念な作業を行うのに対し、例えばインドは手早くセメントで塗り固めるなど荒っぽく評判がよくないそうだ。以前は日本人観光客が多かったが鳥インフルエンザ騒ぎ以来、客足が回復しない。いま多いのは韓国人、寺院の中で韓国人の団体をいくつも見かけたが、韓国の援助による修復プロジェクトは残念ながらひとつもみることができなかった。