チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

ポルポト政治の報道

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ポルポト政治の報道

■朝日による「プノンペン解放」報道
中国に支援されたクメール・ルージュ(ポルポト派)は当時のカンボジア国民の3分の1、200万人以上を処刑、粛清、あるいは餓えと病で死に追いやった。しかしプノンペン陥落直後の朝日新聞の紙面(1975年4月18日)には次ぎのような文字が躍っている。
「解放万歳」「首都に赤旗の波」「万歳にこたえて市民と握手する兵士」「君たちは今日から自由だ」「市民ら解放軍を歓呼で出迎え」「狂喜乱舞の市民」「流血の惨事全くなし」「カンボジア解放の立役者・キューサンファン議長」「一点の曇りもない清廉潔白な人」「未来はバラ色カンボジア建設」・・・・・

下記はプノンペン特派員和田俊記者の記事。彼はテレビ朝日ニュースステーションで長らくコメンテーターを務めていたから、顔をご存知の方も多いことと思う。

「アジア的優しさ持つ カンボジア解放勢力のプノンペン制圧は、武力解放のわりには、流血の跡がほとんど見られなかった。入城する解放軍兵士とロンノル政府軍兵士は手を取り合って抱擁。政府権力の委譲も平穏のうちに行われたようだ。しかも、解放勢力の指導者がプノンペンの裏切り者たちに対し、「身の安全のために、早く逃げろ」と繰り返し忠告した。「君たちが残っていると、われわれは逮捕、ひいては処刑も考慮しなければならない。それよりも目の前から消えたくれた方がいい」という意味であり敵を遇する上で、きわめてアジア的な優しさにあふれているようにみえる。〈中略〉カンボジア人の融通自在の行動様式から見て、革命の後につきものの陰険な粛清は起こらないのではあるまいか。」1975年4月19日『朝日新聞夕刊』

本多勝一記者のカンボジア報道
クメール・ルージュに対して批判的な報道をいち早く行ったジャーナリストにNYタイムズシドニー・シャンバーグ記者がいる。彼の手記『ディス・プランの死と生』は、ピューリッツァー賞を受賞し、映画「キリング・フィールド」の原作となった。本多記者はシャンバーグ記者の記事「プノンペンの2週間‐陥落から脱出まで」(朝日新聞75年5月12日付)を「欧米人記者の眼による救い難い偏見で充満していて、アジア人の生活も心も全く理解できない欧米人記者による不幸な記事といえよう」と断定し、「大虐殺など全くのデタラメ」、と切り捨てた。彼は、クメール・ルージュプノンペンの市民を村落部強制移住させたことも「搾取のない農村経済のもと、みんなが正しい意味で働きながら、まず自給を確立することから自立しようと考えたとしても、まことに自然なこと」と好意的に論評している(月刊潮、75年7月号『欧米人記者のアジアを見る眼』、本多記者は本文を書くにあたって全く現地取材をしていない)。
なおこのようにポルポトを持ち上げ、虐殺を否定したのは本多だけでなく、前出、和田俊(ポルポト派を「アジア的なやさしさに満ちあふれている」と評価)や井上一久(朝日ジャーナル1975年7月11日号にて「ポルポトの虐殺を訴える亡命クメール人には明らかにCIA、DIAの手先とわかるものが多い」と主張)など当時の朝日新聞記者に共通する傾向である。本多記者は自分の小学生時代の作文まで網羅した本多勝一著作集からこの論文『欧米人記者のアジアを見る眼』を意図的に削除している。

■正義とはいやなもの
新聞記者は真実を書くべきだ、などと自分は思っていない。多分それは不可能ではないかと思っているからだ。何か文章を書く以上、事実の羅列であったにしてもその書き並べる事実の取捨選択には書き手の好みが表れる。好みはその人の思想、考え方を表しているから、反対の思想、考え方を持つ人は敏感に「なんだ、この野郎」という反応を示すに違いない。これだけは訴えたいのだと思えば、いくつかの事実には目をつぶって、都合のよいことだけを書くこともあるだろう。「大の虫を生かすためには、小の虫を殺すことも仕方ないのう」とは子供の時に読んだマンガの台詞である。
30数年前の日本では「アメリカ帝国主義」は悪であり、ポルポト、ベトコンの「解放勢力」は善だった。正義を声高に叫ぶ人達にとって、(CIAの手先の)粛清という事実は「小の虫」だったのだろう。
アメリカ帝国主義を誹謗し、解放勢力を賛美してやまなかった三派全学連、市民活動家が、いま、首相、官房長官法務相を務めている。彼らが朝日新聞と一緒に日本を解放するため「小の虫を殺すのも仕方ないのう」などと言い出すのではないかと心配だ。