チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

パナセリ支援 4

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パナセリ支援 4

19日から24日朝までチェンライにも夜間外出禁止令が出ている。19日は禁止令が出ていることを知らず、夕食後にテニスにでかけ、外出禁止となる8時を過ぎて帰宅したが、検問もなく警官の姿を見ることもなかった。20日は夜、外食するつもりであったが、女中があちこち電話して真剣な顔で絶対、今夜は外出してはいけないと言う。タイ語の中に「カーフュー(戒厳令)」と英語が混じる。何かあっては大変と外出は控えたが、やはりその夜はチェンライ市内で赤シャツ党のデモがあったそうだ。デモ隊は市の中心部を練り歩いたが、沿道の商店街からはブーイングが起こり、3回目に回ってきたときは参加者が数えるほどに減っていたそうだ。外出禁止令で商店街はまったく商売にならなかったことだろう。商店主が怒るのは当たり前だ。

全体として反独裁民主戦線(UDD)の活動は政府の強攻策の前に沈静化の方向に向かっている。バンコクでは23日から地下鉄、高架鉄道が運転を再開。UDDが数千人立てこもったパトゥム寺には政府が北部行きや東北部行きの無料長距離バスを出して、デモ参加者の帰郷を促している。新聞によると高級眼鏡を大量にバスに持ちこんだ乗客が逮捕されている。デモのドサクサにまぎれて伊勢丹かセントラルから盗みだしたものらしい。

こんな中、工事の進捗状況確認と2回目の支払いのためにパナセリに来てくれないか、と副村長アダムから連絡があった。保育園建設は順調に進んでいるようだ。非常事態宣言が出ており、銀行は閉まっていたが日中の移動はまったく問題ない。Hさんご夫妻とランドクルーザーでパナセリへ行く。118号線のメータムというバス停から25キロほど山道を登る。ガードレールなどないでこぼこ道で車高の高い車でなければ危ない。以前は25キロの道を2時間もドライブしたものだが、ここ数年、行くたびに道が良くなっている。よくなっているといっても急な坂やカーブの難所に差し掛かると、そこの部分だけコンクリート舗装がされているだけだが。しかし、一部コンクリート化だけでもパナセリまでの所要時間は1時間近く短縮された。

アダムの家で持ってきた札束を数え、領収書を貰う。お金は伝達式を保育園前でやるから今はいいという。保育園は屋根の鉄骨が取り付けられて、なんとなく建物らしくなっている。数人の作業員が働いていた。この建物に3クラス60人の幼児が入るのだと言う。トイレや保育士の宿泊所も作るらしい。完成は6月。

建設中の保育園の前に村長、前村長、それに村の主だった人が集まってきた。アダムに、それでは施工会社の社長さんが来ているからお金を渡してください、と促される。タイでは古着や義捐金など支援をする場合、支援する人がお金やものを被支援者に手渡す。受け取る側はそれを押し頂く。その様子を写真に撮るというのが支援の一般的セレモニーとなっている。気恥ずかしいがこれも浮世の義理と言うことであるから、村の有力者の見守る前で社長さんに札束を渡す。A先生報告用に写真を何枚か撮る。Hさんも同じ札束を使って同じ写真を撮った。これでセレモニーが終わり、建設現場近くの家で昼餐会。

座卓は3,4卓あり、2,3人の女性が忙しく立ち働いていた。朝から食事の準備をしていたのだろう。室内の座卓にはHさん夫妻、アダム、村長、施工会社社長が座る。室外の座卓にはその他関係者が座って、ビール、ラオカオ(タイ焼酎)から食事を始める。宴会参加者はHさんの奥さんを除けば全員男性だ。アカの女性はご飯やおかずの追加に現れる程度。アカの食事ではまず客とホスト(すべて男性)が食べ、女子供は同席しない。おかずやご飯が少なくなると追加がやってくる。出てきたものを食べ尽くすのはご馳走の用意が足りなかった、ということでホストに恥をかかせることになる。魚のから揚げは2匹目が出たが、誰も手をつけなかった。我々の食べ終わったあとに女性や子供たちが食べられるように残すのが客の礼儀である。

県内には夜8時以降、外出禁止令が出ているけどパナセリは?と聞いて笑われた。村には警官も兵隊もいないよ、それに街灯もなく、夜は真っ暗だから誰も夜は外出しないとのこと。確かに聞くだけ野暮というものだ。

6月に保育園が完成する。そのとき支援金の支払いも終わる。あとはバーンマイ(新築祝い)と8月にパナセリを訪問されるA先生の歓迎会ですべて終了だ。


写真は建設中の幼稚園と支援金の「伝達式」、山の空気がきれいでよい眺めでした。