チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

女性宇宙飛行士

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女性宇宙飛行士

4月に打ち上げられるスペースシャトルアトランティス号に日本人宇宙飛行士、山崎直子さんが搭乗する。山崎さんは2001年に宇宙飛行士の認定を受け、2006年にNASAのミッション・スペシャリスト(MS、搭乗運用技術者)の資格を得ている。日本人女性宇宙飛行士としては向井千秋さんに続いて二人目、12年振りのことだという。山崎さんのニュースを見ながら、10年以上前のことを思い出した。自分は向井千秋さんに会った、というか、まじかで拝見する経験をしている。

当時、経済産業省関連のシンクタンクに出向していたので、あちこちの関連団体から研究会、講演会、シンポジウムの招待状が届いた。まあ、その一つに参加させてもらったときに向井さんを見た、というくらいのものだが・・・
下の文章は、そのシンクタンクのニュースレターに掲載したものである。

『先日、モトローラ・ジャパン副社長のロバート・オアさんにお目にかかった。用件が一段落し、雑談に移ったところで「お宅の研究所はアメリカ大使館に近いですね。実は昨日、レセプションがあって大使館に行ったんですよ」とオアさんがいわれるので、もしかして向井千秋さん達、宇宙飛行士の?と聞くとやはりそうだった。実は自分はその日の午後、アメリカンセンターで向井さんはじめ4人のディスカバリーの宇宙飛行士達が出席した小さなパネルディスカッションに参加していたので、話が一気に盛り上がった。
そこで聞いたオアさんのちょっといい話。

「もう亡くなってしまった僕の父はNASAに勤めるエンジニアだった。マーキュリー、ジェミニ、アポロの3つのプロジェクト全部に関係していた。そんな縁があって、子供の僕をグレン飛行士に会わせてくれたんだ。それで昨日のレセプションの時、グレンさんに右手を差し出して、『僕、子供のときにお目にかかったことのあるロバート・オアです。Do you remember me ?』。そうしたらグレンさんは『Sure、覚えているとも』といって握手してくれた。そして二人で大笑いしたね」。
グレンさんがフレンドシップ7号で4時間48分、3周の地球軌道飛行に成功したのは1962年のことである。だからオア少年とグレンさんが出会ったのは30年以上前のことだろう。時の英雄、グレンさんは何万人もの少年少女と握手しているからオアさんに会ったことを記憶しているはずはない。だがアメリカ人特有のジョークでシュアといってくれたわけだ。もちろんオアさんにもそれはすぐ分かった。
「でも僕は少年だった。11才の少年にとっては忘れようにも忘れられない出来事だったんだ」。そう言ってオアさんはまるで少年時代に戻ったように頬を紅潮させた。

アメリカンセンターでは100人も入れば一杯になる小さなホールで講演会がよく開かれる。当日はいつもとは違い、小中学生が前方の席を占めていた。宇宙開発事業団では「スペースシャトルの向井さんと一緒に植物実験をしよう」と、キュウリの種子の発芽実験、トウモロコシやモヤシの根の電場実験を呼びかけ、全国の小中学生がそれに応じた。4人の宇宙飛行士達を前に、優秀賞に選ばれた埼玉県の小学校4年生4名が研究発表を行った。その内容はキュウリの種子上にビー玉をおいたり、根に針を刺したりいろいろ工夫を凝らして、向井さんの実験結果を推定したレベルの高いものだった。

「君たちはまだ10才かもしれないが、すでに立派な科学者だ」身じろぎもせず、ロビンソン宇宙飛行士の講評に聞き入っていた子供たちにとって、それは決して忘れようにも忘れられない思い出になったに違いない』。

この時、慶應義塾中等部の生徒が何人か来ていた。質疑応答に移って、生徒の一人が立ち上がって宇宙飛行士に英語で質問を始めた。向井さんが「同時通訳がいるから日本語でいいのよ」というのを軽くさえぎって淀みなく質問を続けた。帰国子女に違いない。ほとんどネイティブの発音だったものだから、よく理解できなかった。帰り道、某自動車メーカーロンドン駐在員だった同僚と「可愛げのねーガキだったな」などと悪口を言いあったことを思い出す。

あれから十余年、向井千秋さんが文芸春秋で激賞していたあの小学生達は、今は多分、大学生、中等部の生徒はもう社会人だろう。彼らや山崎直子さんのことを思うと、日本の将来もそれ程暗くないのでは、と、チェンライの一孤老は思う。