タイ語の勉強(その2)
乞食のタコ部屋に暮らす少年、ミンの話の続き。
それから4年たってミンは11歳になっていた。仲間の子供2人が、もう我慢できない、一緒にここを逃げ出そうと何度も誘うのだが、彼は首を縦に振らない。逃げて、もし捕まったら手や足を切られ、悪くすれば殺されるかもしれない。ある日、仲間の子2人がドアを壊し始めた。その時、うまい具合に見張りのローティーンの子供はいなかった。ミンはドアが壊れていく様子を恐怖とともに眺めていた。ドアが壊れ、外に出られるようになったその瞬間、ミンは真っ先に家を飛び出し、後も見ずに走っていった。ほかの子供達も命がどうなるか考えずにみんな逃げ出した。
ミンは行く先も知らずにバスに乗り、見知らぬ町でバスを降りた。それからは狭い小路や昔と同じく橋の下で眠る生活を続けた。ある日、年を取った親切な老人が彼の前に現れた。彼はミンを恵まれない子供を支援する財団に連れて行ってくれた。それから彼の人生は一変する。
30年後、彼は大学院を卒業し、天職というべき仕事に就くことが出来た。しかし、かなりの期間、彼は自分の子供の時のことを人に話すことが出来なかった。それは語り始めると涙が止まらなくなって話を続けることが出来ないからだった。しかし、今では、自分の人生を微笑みとともに人に話せるようになった。(おしまい)
以上、ミンの話は実話である。ミンは宗教学で修士号を取り、今はバンコクの大きな教会で牧師をしている。ジアップ先生はクリスチャンだ。チェンライに来たミン牧師の講話を何度か聞いたことがあるそうだ。この4ページのお話はジアップ先生がミン牧師の身の上話をまとめた「書下ろし」である。運よくいい人に出会って、大学院まで出ていい職業にも就いた、でもその間、ミンはお父さん、お母さんに会いたくなかったのでしょうか、と言う質問に対するジアップ先生の答え。
もちろん、ミンさんはあらゆる方法を使って両親の居場所を探しました。でもミンさん自身が何処の出身か、何処から何処を通ってバンコクに来たか全く覚えていないのです。ミンという名前自体、本当の名前かどうか分からないのです。ご両親は離婚したのですから、それぞれ新しい家族が出来たはずです。両親がもとのサヤに納まって、二人で子供を捜し続けていればまだしも、まあタイでは無理ですね。
確かに、日本と違ってタイでは下層階級の子供が一人や二人、行方不明になっても警察が真面目に見つける努力をしてくれるとは思えない。タコ部屋に監禁されていた他の子供達も、本来であれば警察が動くべきであろうし、その前に子供が行方不明になった、と親が捜索願を出すべきであろう。その点、タイでは日本とは違う通念があるように思う。
乞食(これはタコ部屋と同様、日本では放送禁止用語である。気になる向きはそれぞれ、ホームレス、窮屈な作業員宿舎と読みかえてほしい)をタイ語でコーターンという。コーターンはチェンライの街角、市場の中などどこにでもいる。ウズベクと同じく、多くの人が当たり前のように小銭を与えている。でもねー、乞食の親子がイタリアンレストランでピザを食べていたのよー、ピザよ、ピザ、とジアップ先生が怒っていたから、乞食もそれ程悪いビジネスでないのかもしれない。
ジアップ先生の話ではタイの乞食に足のない人が多いのは、手を切り落とすと小銭を受け取ることが出来なくなるからだ、という。見せしめで足を切り落とされた子供は、多分、その後、稼ぎは良くなったことだろう。インドでは子供を買ってきて、物乞いをやりやすくするために足を砕いてしまうと聞いたことがある。若いときはこんな話を聞くと義憤に駆られたものだが、今はそんなものかなー、と思う程度だ。人間性が年とともに劣化したのであろうか。
ジアップ先生に、ミンは、あのまま村に残って、父親もしくは仲の悪い両親と暮らし続けたほうがよかったのか、それとも食うや食わずの生活をしたが、今のような牧師の生活を送るほうがよかったのか、と訊ねてみた。それは、そのまま村に残っていた方が幸せに決まっています、というのがジアップ先生の答えだった。当たり前でしょう、と言わんばかりであったが、皆さんはどう思われるであろうか。なぜ、そう断定できるのですか、と聞きたかったが、もう時間がなかった。
いつか、ああ、なるほど、先生の言ったことが正しかったのだな、と腑に落ちる時が来るかもしれない。タイ語とタイ文化は難しく、奥が深い。