介護ロングステイ13ヶ月
北海道の冬は寒い。気温が零度以下になる。吐いた息の水分がまつ毛について、それが凍ってツララになる。ツララはどんどん伸びてくる。だから北海道の人は皆、割り箸を持ち歩いていて、呼びかけられると、「はい、誰だい」と言って割り箸でまつ毛のツララを持ち上げて相手を確認する。中学1年の時の国語の先生の話だ。さすがにこれは眉唾だと12歳の子供にもわかった。先生はまつ毛の話に続けて、北海道は寒いから耳を出していると耳が凍傷にかかる、耳が凍ってしまうわけだから、何か固いものにぶつかると、耳がポロリと落ちてしまう。北海道には耳がない人が多いのはそのせいだ、と真面目な顔で言う。中学に入ったばかりで純真だったのか、北海道民の10人に1人か2人は耳のない人がいるのだろうと信じてしまった。先生は確か北海道の出身だったと思う。後年、社会人となって初めて北海道に足を踏み入れたが、冗談とわかっていても、札幌大通公園や四条市場にいる人たちの耳がちゃんとついているかどうか気になって仕方なかった。
そういえば、中学の国語教科書に生き生きとした表現の例として、南米を探検してきた人が「そりゃ蚊と言ってもトンボみたいな蚊が飛んできて、木綿針のような針で血を吸いに来るんですから、痛いの、痒いの、たまったもんじゃないです」とか何とか講演している話が載っていた。今となってはウソコケというところだが、当時はみんな、ホー、ホーと感心して聞いていたのだろう。
国語の先生の話は法螺だが、南米の蚊の話は多少大げさといった部類だろう。行った経験がない地域の話、特に外国での経験談は、本人が意識するとしないに拘らず、人に間違った情報を与えてしまうことがある。自分も一連のレポートで、女性の歳を少し少なめに書くとか、複数の人の発言を一つにまとめたり、と多少の脚色をしているから、人によっては、あれ、ホントは違うじゃないかと言うだろう。また自分の経験した事実の羅列であっても、すべてをごちゃごちゃと書くわけにもいかず、取捨選択して書く。このとき、どうしても自分の主観が出てしまう。客観的ではないという意味では国語の先生や探検家の話と五十歩百歩ということかもしれない。
介護のレポートは全体の2割以上を占めると思うが、その時々のことを自分なりに綴っているつもりだ。以前、小津映画のように何気ない会話が続く平穏な日々の連続を介護生活の一つの形として夢想したことがあるが、今もそれに変わりはない。認知症は決して治る病気ではないので、昨日と同じ日が今日も、今日と同じ日が明日も続いてくれることが、母と自分達にとって望ましいことなのだ。その日々が、それ程長く続かないだろうと心の底ではわかっているだけに、変わらないということがありがたく思えてくる。
タイでの介護を始めて13ヶ月経つ。シルブリン病院に母とブアとで行く。月一回の診察日だ。車で病院玄関に乗り付けると、いつものように若い係員が病院の車椅子に母を乗せてくれる。今日は受付を済ませて5分もしないうちにプルーム医師の診察を受けることが出来た。いつも家で「おなかが痛い」といい続けている母に、お医者さんに何か言いたいことはないの?と聞くと「こんにちは」とつぶやいただけだった。以前は、ワイの挨拶をしてプルーム医師を喜ばせたものだが、今回は無表情である。医師がさよなら、と片手を挙げたら、初めてゆっくり頷いた。おお、良くなっているではないですか、とプルーム医師はご機嫌だ。
チェンライに来た当初は、足が浮腫んでいて、歩行困難であったが、薬がよかったのか浮腫みが消えて、一時は一人で室内を歩くくらいに回復していた。食事も一人で摂れた。しかし、1月の入院以来、すっかり足が弱くなって、以前ほど室内を歩くこともなくなった。食事も女中さんの介助を得ながら、1時間近くかけてゆっくり食べる。嚥下障害による肺炎再発の心配から、薬は乳鉢でつぶしてジュースに溶かして服用している。声は小さくなったし、言っていることもはっきりしない。時には「疲れた、お母さんはもう死ぬよ」などと気弱なことを言う。
1月の入院騒ぎは誰にも知らせていなかったのだが、散歩で会うタイ人がお見舞いと言って果物を持ってきたり、退院後の散歩では退院できてよかったですね、と声をかけてくれた。女中を通してだと思うが、タイ人同士は情報交換が盛んらしい。最近は、女中さんはもとより、多くのタイ人のさりげない思いやりを感じることが度々だ。
介護はもちろん自分達が主体的に行なうべきものではあるが、多くの人たち、この穏やかな気候、美味しい果物などあらゆることに助けられていることを忘れてはならないと思う。
写真のレモンイエローの花はドークサカロンという名前、勝利の花という意味らしい。日本では見たことのない鮮やかな色です。 楊貴妃がこよなく愛したライチの花はとても地味です。